桂川用水
かつらがわようすい
葛野・乙訓両郡のうち、桂川中流域両岸の諸荘園を灌漑する目的で中世に開鑿された用水路。明応四年(一四九五)頃作成と推定される桂川用水差図案(東寺百合文書)によれば、上は法輪橋(渡月橋、現右京区)より下は吉祥院(現南区)に至る桂川両岸に合計一一ヵ所の取入口が設けられていたことが知られる。これらを総称して桂川用水という。中心水路は今井溝で、桂川右岸松尾馬場崎(現西京区松室中溝町付近)から徳大寺・下桂・下津林(現西京区)、上久世・築山(現南区)を通って羽束師(現伏見区)に至り、桂川本流に注ぐ全長約一〇キロ余、中世屈指の大用水路である。また、途中現西京区松尾鈴川町付近から分流した上六郷溝は、革島(現西京区)、物集女・寺戸(現向日市)の諸庄を潤しながら現伏見区淀樋爪町付近で桂川本流に合流する。
京都府は昭和三三年(一九五八)以来、洛西用水改良事業を施行、桂川右岸の農業用水を確保しているが、その主要幹線はこの五〇〇年前の用水路をそのまま利用している。
史料上の初見は暦応年間(一三三八―四二)の上久世季継ら土豪の連署契状(革島文書)で、
<資料は省略されています>
とあり、用水の開発が鎌倉時代にさかのぼることを示唆する。また契状は、今井溝から最も多量の引水をしていた東寺領上久世庄・仁和寺領寺戸庄・西園寺家領革島庄の三地域を代表する三土豪が、用水の共同利用を契約したものである。
〔水論〕
桂川両岸にはほかに長福寺領梅津庄・郡・川勝寺(現右京区)、石清水八幡宮領西八条西庄(現南区)、東寺領上野上桂庄・摂関家領下桂庄(現西京区)等の荘郷が密集、特に旱魃期には水量の配分で用水相論が生じた。幕府が関与した訴訟のみでも、応永二六年(一四一九)から永正一五年(一五一八)までの約一〇〇年にいくつか起こっている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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