西畦野村(読み)にしうねのむら

日本歴史地名大系 「西畦野村」の解説

西畦野村
にしうねのむら

[現在地名]川西市西畦野一―二丁目・清流台せいりゆうだい東畦野ひがしうねの一丁目・同四―六丁目・西畦野・水明台すいめいだい

東畦野村の西に位置する。

〔中世〕

延応二年(一二四〇)三月日の新田預所経阿寄進状写(満願寺文書)多田ただ庄内「西畝野」とみえ、同所仲島新畠と荒野の計六段は昔から御堂の敷地として満願まんがん寺に寄進するとある。また「西畝野村」本寄進のほかに田畠五町余の寄進地があった(建武三年一一月日「満願寺衆徒等言上状写」同文書)。しかし元応年中(一三一九―二一)多田庄検注で公領であると指摘され、福田氏に与えられたが、元亨二年(一三二二)満願寺領であることを多田庄政所から安堵された(同年八月一八日「多田庄政所沙弥某書下写」同文書)。貞和五年(一三四九)頃に塩川仲澄と満願寺の間で紛争が続いている(貞和五年二月日「満願寺衆徒等言上状写」同文書など)。応安元年(一三六八)四月八日の多田院金堂供養棟別銭注文(多田神社文書)では西畝野にしうねのが記される。永和元年(一三七五)七月二五日の多田院諸堂造営料棟別銭郷村注文(同文書)には西畝野一一六家とあり、いずれも一〇文ずつの棟別銭が賦課されている。応永二〇年(一四一三)正月二六日の令白寄進状(大徳寺文書)および同三四年三月一〇日の令白契状案(同文書)によれば、令白は重代相続の屋敷地に心宗(気叟宗意)開山に迎えて興福こうふく庵を建て、屋敷・家具・田畠などの文書を添えて宗意に寄進している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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