満願寺(読み)まんがんじ

精選版 日本国語大辞典 「満願寺」の意味・読み・例文・類語

まんがん‐じマングヮン‥【満願寺】

  1. [ 一 ] 栃木県栃木市出流(いずる)町にある真言宗智山派の寺。山号は出流山。神護景雲七六七‐七七〇)頃日光山を開いた勝道が開山。日光二荒山修験者の入峰修行所。坂東三十三所の第十七番札所。
  2. [ 二 ] 栃木県日光市にある輪王寺の旧称。弘仁元年(八一〇嵯峨天皇から賜わった勅号。明暦元年(一六五五)輪王寺と改称。明治二年(一八六九)旧称の満願寺に復したが、同一六年再び輪王寺に改められた。

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日本歴史地名大系 「満願寺」の解説

満願寺
まんがんじ

[現在地名]川西市満願寺町

神秀山と号し、高野山真言宗。本尊は千手観音。宝永五年(一七〇八)の縁起(寺蔵文書)や「伽藍開基記」によれば、神亀年間(七二四―七二九)勝道が千手観音像を祀ったのが始まりという。昭和五七―五八年(一九八二―八三)の本堂解体修理に伴う発掘成果や、寺蔵文書・仏像などから平安後期には寺の存在が推定され、当初は天台寺院とみられる。本堂下層には三期の遺構があり、上層の建物IIIは南北朝から室町時代にかけての建物で、地鎮具が埋納されていた。

源満仲が多田ただに本拠を置いた時、満願寺に帰依し、末子源珍(童名美女丸、源賢とも)が出家したのち一時当寺に居住したという(建武元年三月一八日「満願寺衆徒多田院一和尚職定書」多田神社文書)。寿永二年(一一八三)一二月一〇日の御使左兵衛尉実基奉禁制(満願寺文書、以下同文書)で、源頼朝は満願寺に対し寺内での武士の狼藉を禁止し、源家先祖ゆかりのある地で、武家祈祷所として祈祷の忠を励むよう要請している。県下で頼朝が祈祷依頼した最も早い例であり、まだ源義仲が都で勢力をもっていた時期であるだけに重要な意味をもつものであろう。


満願寺
まんがんじ

[現在地名]穂高町大字西穂高 牧

浅川あさかわ山の東麓、栗尾沢くりおざわ入りにあって栗尾山を称し、江戸時代高野山竜光院の末寺、明治一一年(一八七八)以後奈良県長谷寺末となり、真言宗豊山派。本尊は千手観世音菩薩像。

弘治二年(一五五六)の信州栗尾山精舎再興勧進状(満願寺蔵)によると、当寺は坂上田村麻呂の開創であること、本堂の前を流れている川を三途河といい、また左右にある山は死出山で、道が六つに分れていて一三六地獄の体相があること、堂の東北の方向に毘羅樹があって、罪障の人が死後この木に集まってくること、一度参詣したものは罪障を消すことができること、乱世になって寺内に火がおきて伽藍をことごとく焼失してしまったこと、ここに無上の大願を発して十方に檀那になることを勧め、一紙半銭の奉加をたのみ、寸鉄尺木の助力を乞うて造立をせんとするものであることなどが述べられている。当寺の創建を坂上田村麻呂としているのは、彼が有明ありあけ山の麓に住んでいた異族八面大王を征伐したという伝説によるものである。中興開山とされる当寺の別当権大僧都尊応の元亀二年(一五七一)以後の祈祷巻数札が観音堂にあることから元亀初年頃までの間に再興されたものと思われる。


満願寺
まんがんじ

[現在地名]南小国町満願寺

満願寺川沿いにある。立護山と号し、真言宗、本尊は毘沙門天王像(多聞天)。鎮西に下された北条時定が九州勅願寺として文永一一年(一二七四)に建立、山城醍醐寺の僧経杲を招いて開山とする(満願寺記「国誌」所収)。真言宗高野山如意輪寺末で、天台系の西巌殿さいがんでん寺に対抗する北条勢力の拠点としての意味をもつ。当寺の所領は小国郷内の在所を中心とし、興国二年(一三四一)八月三日の南朝方大宮司宇治惟時避状(満願寺文書)では、「聖運一統の時」を期して永代寺領の寄進を約している。文明九年(一四七七)七月二五日の阿蘇惟家置文写(同文書)では「任惟時御遺誡、此内雖為一所、不可有自他之妨」として、先の惟時避状の旨を守って寺領を安堵している。この寺領と「一所阿蘇大神護寺免 一所志津里 一所江古尾 一所秋原 一所尻江田 一所立岩 一所中原石田 一所上田石田 一所宮原石田 一所如法経免」の一〇ヵ所で、うち八ヵ所は小国郷内である。


満願寺
まんがんじ

[現在地名]世田谷区等々力三丁目

目黒通(旧二子街道)の西側にある。致航山と号し、真言宗智山派。本尊は大日如来。文明二年(一四七〇)世田谷城主吉良氏により定栄を開山に迎えて深沢ふかさわ村に創建されたと伝え、同村には満願寺坂の地名も残る(風土記稿)。吉良氏の祈願所で、当初は医王山と号していた。天文四年(一五三五)六月二八日付の吉良頼康の法度が伝えられていた(風土記稿)。同二一年二月には「世田谷之内満願寺」の再興のため山屋敷・手作分が頼康から寄進された(「吉良頼康書状」満願寺文書)


満願寺
まんがんじ

[現在地名]栃木市出流町

出流いずる川上流域にある真言宗智山派寺院。出流山千手院と号し、単に出流山・千手せんじゆ院ともよばれた。南北朝期のものという本尊の十一面千手観音は寄木造で、六尺三寸の立像。本堂(大御堂)は県指定文化財。日光山を開いたという勝道上人の開基と伝え、「補陀洛山建立修行日記」によれば、若田高藤介の妻が「伊豆留岩屋」の千手霊像に祈願して授かったのが勝道で、のち勝道はこの岩屋で修行したとある。こうした寺歴のためか江戸時代には日光の修験者は必ず一度当山で修行する取決めであったという。「庶軒日録」文明一八年(一四八六)九月二八日条に「下野国出観いつるの・音」とある。


満願寺
まんがんじ

[現在地名]舞鶴市字万願寺 中里

万願寺まんがんじ集落の北方山麓にある真言宗の寺院、現在御室派に属す。開基は建保年中(一二一三―一九)弁円と伝える。山号西紫雲山、本尊十一面観世音菩薩(坐像、鎌倉時代、像高一三三センチ)

本尊膝裏の銘文に「建保六年戊寅九月二日奉造立周半丈 中奉籠□□ 奉請十一面観世□ 御体一願主 丹後国満願寺 院主 大法師 僧弁円 □年六十九 □覚房 自今年七月廿三日 午時模始 同今月今日造立 □□山城国□□ 比叡山 楞厳院 □□丹州満願寺僧也 惣□□□ 法界 平等 利益而已(花押)」とあり、背板に「大仏師 観賢」の別筆がある。


満願寺
まんがんじ

[現在地名]和歌山市寺内

弘誓山と号し、高野山真言宗。十一面観音を本尊とし、近世には岡崎おかざき観音とよばれた。「紀伊国名所図会」によれば弘仁三年(八一二)空海の建立、一条天皇のとき勅願寺になり七堂伽藍を建立したが、延久三年(一〇七一)に焼失したという。また「続風土記」所引の縁起や紀伊古跡誌(和歌山県立図書館蔵)には、天治二年(一一二五)鳥羽上皇の熊野御幸の時、僧頼広が当地で霊仏を見たことにより上皇が頼広を開山とし、沢四郎義実を別当として建立したとある。


満願寺
まんがんじ

[現在地名]東村阿波崎

北須賀きたすかにある。北須賀山寿福院と号し、天台宗。本尊は釈迦如来。寺伝によれば、天平一二年(七四〇)行基が開基し、弘仁二年(八一一)最澄によって天台宗に改められたという。もと中妻なかづまにあったが、天正一八年(一五九〇)佐竹氏の攻撃で焼失、文禄四年(一五九五)に現在地に再建された。「寛文朱印留」に満願寺領として

<資料は省略されています>

とあり、朱印地二〇石が幕府から与えられた。

本尊の釈迦如来立像(県指定文化財、像高一八・六センチ)白鳳時代の作といわれるが、戦火に遭ったため顔面・胸部の線は鮮明さを欠く。


満願寺
まんがんじ

[現在地名]福島市黒岩

うえまちにある。黒岩山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊釈迦如来。弘仁二年(八一一)の創建で、慶長三年(一五九八)上杉氏家臣尾崎重誉が中興したと伝える。近世初頭、米沢法泉ほうせん寺の末となった。満願寺虚空蔵堂の建立は、棟札(寺蔵)によれば寛永一一年(一六三四)七月で、上杉氏の信夫代官である古河善兵衛重吉が西根上にしねうわ堰の竣功の礼として造営したという。米沢藩の寛文三年(一六六三)の分限帳(福島市史)に満願寺がみえ、寺領一二石二斗余であった。また同一一年の黒岩村検地帳(黒岩区有文書)には高三〇石五斗余の「満願寺不納」分の記載がある。


満願寺
まんがんじ

[現在地名]小山市立木

上立木かみたつぎと下立木のほぼ中間にあり、水田に囲まれる。日光山勝長寿院と号し、天台宗。本尊は阿弥陀如来。建保六年(一二一八)小山朝政が父政光の菩提を弔うために建立したと伝える(下野国誌)。また同年日光山座主弁覚が日光山寂光じやつこう寺内より三社権現・中禅ちゆうぜん立木たちき観音を当地に勧進し創建、小山氏の菩提寺としたのが始まりとも伝える。朝政は同年七月一九日日光中宮祠に宝殿を寄進している(「古棟札写」日光山志)。小山一族の大方(関)氏からは日光山別当などが輩出しており、当寺開山弁覚も政光の従兄で、俗名を大方余一という。建暦三年(一二一三)の和田合戦では相模鎌倉の「町大路」で弟子らとともに和田方と戦っている(「吾妻鏡」五月三日条)


満願寺
まんがんじ

[現在地名]上三川町東汗

東汗ひがしふざかし集落の北西、県道雀宮すずめのみや真岡もおか線のやや北にある。真言宗智山派。仁王山と号し、本尊は弘法大師作と伝える不動明王。もと東蓼沼ひがしたてぬま満福まんぷく寺の末。安永五年(一七七六)の開基並境内社堂書上帳(当寺文書)によれば神護景雲年間(七六七―七七〇)勝道上人が日光開山の折に当地に立寄り、その際開基したという。平安末期の恵心僧都作といわれる木造阿弥陀如来坐像は県指定文化財。当寺を別当とする薬師堂は仁王山薬師院と号し、本尊は勝道作と伝える薬師如来坐像、汗薬師堂ともいわれる。


満願寺
まんがんじ

[現在地名]静岡市小坂

小坂おさか地区の北寄りに位置する曹洞宗寺院。光道山と号し、本尊は行基作という千手観音。建武五年(一三三八)六月一二日の駿河国国宣(満願寺文書)によって今川範国は景静に「満願寺」を安堵しているが、同国宣は範国の初期の発給文書の一つ。年未詳一〇月一二日の駿河守護今川範氏書状(同文書)では、範氏が満願寺長老に母のための祈祷を依頼している。永和四年(一三七八)三月二日の駿河守護今川泰範書下(同文書)をはじめとして、範政・氏親・氏輝など今川氏歴代から、青木あおき郷などの寺領を安堵されている。


満願寺
まんがんじ

[現在地名]御調町菅

すげの集落の中ほどにある丘陵にあり、臨済宗仏通寺派。本尊十一面千手観音。所伝によると、当寺はもと高田郡吉田よしだ(現吉田町)にあった天台宗阿弥陀あみだ院で、毛利元就が祈願所とし、覚香が真言宗に改宗して満願寺と改称、天正末年に菅村に移して海頭山と号したが、毛利氏の防長移封に従い慶長九年(一六〇四)はぎ(現山口県萩市)に移り、菅村の寺は廃されたという。正徳六年(一七一六)御調郡寺社縁起帖写(三原市立図書館蔵)には元禄元年(一六八八)村中より再建と記す。


満願寺
まんがんじ

[現在地名]久御山町大字林

はやしの西南部、北流するふる川の東に位置する。東向山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。

「京都府地誌」は延暦二年(七八三)最澄によって創建され、初め天台宗で、浄土宗に改宗されたのは永禄一二年(一五六九)とする。また一説に大同年間(八〇六―八一〇)道澄によって開基され、成就じようじゆ坊とよばれていたといい、浄土宗への改宗時期は慶長年間(一五九六―一六一五)ともいう(佐山村郷土誌)


満願寺
まんがんじ

[現在地名]津島町岩淵

岩淵いわぶちの南側の山麓にある。香雲山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊薬師如来。

宇和旧記」によると寺名は万願寺とあり、「本尊薬師、真言宗、開基不知と雖も、四国遍路の札所なれば八百年余になるべし、昔は津島殿祈願所にて七堂伽藍のよし、畑壱反拾四歩無年貢地あり」とある。これによると当寺は四国遍路の札所と記されているが、現在四国八十八ヵ所のうちには加えられていない。文明一七年(一四八五)八月二二日に越智市僧如藤原能世が願主となり、鏡を当寺に奉納している。


満願寺
まんがんじ

[現在地名]湯浅町湯浅 中の島

湯浅の南東部にあり、高野山真言宗。山号護国山、本尊聖観音。後白河上皇の勅願所と伝える(続風土記)。寺の後背地は丘陵地、西と南は平地に臨み、近くを熊野街道が通る。古くは七堂伽藍が整い、三六坊あったが退転、白樫氏がその跡に移り住み築城したという。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「満願寺」の意味・わかりやすい解説

満願寺
まんがんじ

栃木市出流(いずる)町にある真言(しんごん)宗智山(ちさん)派別格本山。出流山千手院(せんじゅいん)と号する。本尊は千手観音菩薩(かんのんぼさつ)。出流観音ともよばれ、坂東(ばんどう)三十三所第17番札所。日光開山の勝道上人(しょうどうしょうにん)により767年(天平神護3)開創、820年(弘仁11)弘法大師(こうぼうだいし)空海が立ち寄り、霊像を刻し納めたのが現在の本尊と伝えられる。江戸時代に徳川家光(いえみつ)のころより朱印50石を受け、守護使不入の地として10万石の格式を与えられ、山内には7か寺2坊を配して威勢盛んであった。戦国時代以降、当山派修験(しゅげん)に属し、日光修験僧はかならず一度は当寺での修行を定められており、また伊勢(いせ)参拝者や出羽(でわ)三山詣(もう)での道者などが巡拝するため参詣(さんけい)者が多かった。本堂(大御堂(おおみどう))は江戸中期に再建されたもので、日本三御堂の一つ。本堂の裏、剣ヶ峰の中腹に七つの霊窟(れいくつ)(鍾乳洞(しょうにゅうどう))があり、とくに観音霊窟は当山の奥の院とされる。幕末、討幕の志士が当山にこもり殉国した出流山天狗(てんぐ)事件は有名である。

[中山清田]

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改訂新版 世界大百科事典 「満願寺」の意味・わかりやすい解説

満願寺[温泉] (まんがんじ)

熊本県北東部,阿蘇郡南小国町にある温泉。含食塩硫黄泉,33~42℃。阿蘇外輪山のすそ野を流れる志津川に臨む。満願寺は,元寇の際に北条時定・定宗が建立したと伝えられる古寺で,古くはその寺湯であった。1954年国鉄宮原線(1984年,バス路線に転換)が肥後小国まで開通して以来,遠方の浴客も訪れるようになった。川岸には露天ぶろがある。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

防府市歴史用語集 「満願寺」の解説

満願寺

 萩の城内にあった真言宗[しんごんしゅう]の寺で、周防[すおう]・長門[ながと]の真言宗で最も上位の寺でした。支配する寺が81ヶ所あり、阿弥陀寺[あみだじ]もその1つです。もとは毛利[もうり]氏の本拠地だった広島県吉田町の郡山城[こうりやまじょう]の中にありましたが、毛利氏とともに萩に寺がうつり、現在は防府天満宮の西側に寺の場所がうつっています。

出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報

デジタル大辞泉プラス 「満願寺」の解説

満願寺

栃木県栃木市にある寺院。真言宗智山派。神護景雲年間、勝道上人が開山と伝わる。山号は出流山(いずるさん)、本尊は弘法大師の作とされる千手観音(出流観音)。坂東三十三観音第17番札所。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

事典・日本の観光資源 「満願寺」の解説

満願寺

(長野県安曇野市)
信州の古寺百選」指定の観光名所。

満願寺(第17番)

(栃木県栃木市)
板東三十三箇所」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の満願寺の言及

【出流山】より

…出流山満願寺は栃木県栃木市にある真言宗智山派の寺。坂東観音霊場第17番札所。…

【輪王寺】より

…日光山の山岳信仰の歴史は古く,寺も天平のころ勝道が開創した四本竜寺に始まると伝える。寺名はその後四本竜寺から満願寺に変わり,院号も一乗実相院,光明院へと変わった。1613年(慶長18)天海が中興した。…

※「満願寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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