日本歴史地名大系 「西鍛冶町」の解説 西鍛冶町にしかじちよう 愛知県:名古屋市中区西鍛冶町[現在地名]中区錦(にしき)二丁目桶屋(おけや)町の南にあり、桜(さくら)の町の三軒南から本重(もとしげ)町筋の二軒北までの三丁をいう。中(なか)道の西側もふくむ(町名起因並町家由緒)。桶屋町南の桑名(くわな)町筋は両側に武家の住宅が並び、堀切(ほりきり)筋をわたって花屋(はなや)町筋で行止りとなる。清須(きよす)越しの折、大工・桶師・葺師道具類の鍛冶たちが住居したので、この町名が生れた。鍛冶町とも称したが、東の関鍛冶(せきかじ)町と紛らわしいため西の字をそえて区別。成立の年月は不詳(蓬左遷府記稿)。一帯は昔万松(ばんしよう)寺(現大須)の境内だったらしく、町内傘屋亀二郎方の裏の井戸は万松寺のものだったと伝えられる。 西鍛冶町にしかじまち 福岡県:北九州市(旧豊前域)小倉北区小倉城下西鍛冶町[現在地名]小倉北区田町(たまち)西曲輪の鍛冶町で、東は田町三―五丁目に接し、西に外堀がある。町並は南北に連なる。たんに鍛冶町、西の鍛冶町とするほか、西鍛冶町ともみえる(小倉領寺院聚録)。日帳(永青文庫)の寛永三年(一六二六)一二月一九日条に「かち町」とある。町の突当りの到津口(いとうづぐち)門(枡形門)は長崎街道の城郭への出入口で、常時開門して数人が詰めた。門の手前に広い勢溜があった。江戸後期の町屋敷図では東側に町家二四軒、西側に二三軒で、うち四軒は鍛冶屋の屋号をもつ。農具鍛冶であった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報