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覚仁(読み)かくにん

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

覚仁 かくにん

?-? 平安時代後期の僧。
大治2年(1127)勝覚の命で,焼失した東寺真言院の十二天・五大尊画像を再興する。東大寺所領の荘園の復興と拡張にあたり,保元2年同寺領伊賀(いが)(三重県)黒田荘預所に任じられ,悪僧,法敵とののしられるほど荘園経営に手腕をふるう。永暦(えいりゃく)元年(1160)上座威儀師となった。大和(奈良県)出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

覚仁

生年:生没年不詳
平安末期の東大寺の僧。東大寺の荘園経営で著名。東大寺の政所に仕える所司の子。11世紀に東大寺の所司として裕福でならした慶寿の末孫として天治2(1125)年に三綱(寺院管理統制をする役僧)の一員となり,大治5(1130)年に威儀師(儀式法会の際の僧尼の指導僧)となって,奈良の今小路に住んだので今小路威儀師と呼ばれた。大和国を知行した摂関家による天養1(1144)年の国の検注では摂関家と交渉し,保元の乱(1156)後の荘園整理の際には記録所と交渉を持って,東大寺の荘園を安定させるとともに,伊賀国の黒田荘(名張市)をはじめとする現地の荘園を預所として経営した。東大寺が中世寺院に転換するに当たって,その経済的基盤である所領の経営に辣腕を振るい,雄弁と腕力を発揮したため,保元の乱前には「南京悪僧の由,天下に披露の僧」と称され,また興福寺との争いでは「形は僧侶に似て,心は法敵たり」と悪罵された。しかしその活動の結果,例えば黒田荘は承安4(1174)年に院庁下文により荘園として確立するなど,東大寺の荘園経営を軌道に乗せたのであった。<参考文献>石母田正『中世的世界の形成』,五味文彦『院政期社会の研究』

(五味文彦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

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