改訂新版 世界大百科事典 「宋代美術」の意味・わかりやすい解説
宋代美術 (そうだいびじゅつ)
Sòng dài měi shù
宋代(960-1279)は北宋時代(960-1127)と南宋時代(1127-1279)とに二分されるが,美術全般の様式変遷もこの時代区分を適用しうる展開を示している。
宋代の美術界で主導的な地位を占めたのは絵画であった。六朝の書,唐の詩,宋の画と評されるように,中国絵画史のなかで最高の評価を得た宋代の絵画を特徴づける要因として水墨画の手法のめざましい発達,主導的な題材の道釈人物画から山水画への移行,画家と鑑賞者の両者にみられる文人意識の増大という三つの現象を指摘できる。人物画の分野では唐代に頂点に達した大画面形式の道釈人物は北宋前期の職業的な画家たちによって継承されたものの,形式化し衰退していく傾向をみせたが,北宋末の李公麟が文人趣味にあう白描画風の人物画を再興し,この分野に鑑賞絵画としての新生命を吹き込み,南宋期の禅機画盛行の出発点となった。李公麟の絵画は,材料としておもに紙と墨を選ぶもので,従来彩色画中心であった人物画のジャンルにも水墨画の影響があらわれたことを示している。山水画の分野は宋代に最も注目すべき発展をみせた。五代の荆浩(けいこう)が線的要素(筆)と面的要素(墨)の融合を図り,これを継ぐ関仝(かんどう),李成,范寛(はんかん)らが華北系の山水画の代表作家として,それぞれに地方色の強い画風を形成,これらは北宋後半に郭煕(かくき)の様式に総合されていく。
一方江南では,董源(とうげん),巨然らが唐代後半の潑墨の伝統に立ち,対象を陰影によってとらえる画風を開いた。この時期の華北・江南両地方の山水画は世界の絵画史のなかでも特筆に値する高い水準にあった。北宋後半,文同,蘇軾(そしよく)を中心とするグループの墨竹より興った文人の墨戯は書と画の中間項のような新しいジャンルで,この墨戯の成立という現象は絵画における中国の特異性を示している。江南の董・巨様式は北宋末に米芾(べいふつ)によって再興されるが,李公麟の人物画と同様に,米芾も材料として紙と墨を採用した。この選択と彼の作画態度には文人墨戯の影響が色濃い。蘇軾,米芾,李公麟をはじめとする文人たちの絵画界への積極的な参加と,そこで形成された絵画観は,彼らと交渉のあった宮廷画家郭煕を通して画院(翰林図画院)にも影響し,同時に趙令穣,王詵(おうせん)ら貴族たちの細緻な画風とも結びついて,さらに徽宗の指導も加わって詩的な暗示的表現に富む院体画風を成立させる。この時期の画院における李唐は対象を単純明快な形態に還元させる新傾向を提示し,それはのちに馬遠,夏珪(かけい)によって南宋院体山水画の典型へと展開していく。彼らの山水画における余白空間の大きな対角線的構図は,北宋山水画の正面的な対象把握に対して,画面構成における一方の極とみなしうる。また米芾が墨戯的要素を加えて復興した江南山水画の伝統は,絵画界の伏流となり,南宋末期の牧谿(もつけい),玉澗(ぎよくかん)の作品に結実した。
花鳥画の分野では,北宋初期,宋に併合された蜀と南唐よりもたらされた2様式の対立が目だつ。それぞれ965年と975年に滅亡した蜀と南唐から黄筌(こうせん)様式(黄氏体),徐煕(じよき)様式(徐氏体)が流行した。蜀の併合が南唐の場合より10年早かったこともあって,当初は装飾的で豊麗な黄筌系の画風が優勢であったが,水墨画の発展,文人墨戯の盛行等の画壇の趨勢のなかで,徐煕の名声が黄筌を圧するようになる。このことは江南山水画の再確認と並行する現象である。北宋末の徽宗皇帝は,みずから画院を指導し,装飾的であった院体の花鳥画に鑑賞絵画としての品位と博物学的な正確さを要求して,同時期の山水画とともに,南宋院体画の基礎を作りあげた。この精緻な画風は南宋に継承されたが,時代が下るに従い,形式化して単なる細密画的な作風に堕していった。このような彩色の花鳥画に対し,北宋後半に興った墨戯はまず墨竹に始まり,墨梅,墨蘭と題材を広げていき,文人画の理念と水墨の技法に支えられて,後世大きな発展をみせる分野となった。
宋代の絵画は表現と技法における高い水準と多彩な様式を誇った。例えば北宋のモニュメンタルな山水画,南宋院体画の画家と鑑賞者の間のコンセンサスに支えられた洗練度などを見れば,宋代の絵画が世界のこの分野での一つの頂点をなしていることが理解される。
書の分野では,国初は古法帖や王羲之,王献之の名跡を収めた《淳化閣帖》の刊行が行われ,伝統的な書風が主流であったが,蔡襄が出て伝統的な技法の枠から書風を開放し,さらに蘇軾,黄庭堅らが自己の人間性を率直に表現することを推し進めた。米芾も晋・唐名跡の臨摹(りんも)から始めて平淡自然な書風を樹立したが,このような傾向は絵画における文人墨戯の成立と軌を一にするものである。南宋期には,蘇・黄・米3家の書風が文人間に流行し,北方の金にもこの影響は及んだが,南宋の高宗流の伝統派の書風も並行して行われた。日本に多く伝存する禅僧の墨跡は,この時期の書風が禅林界に反映した結果とみなしうる。
彫塑は基本的に宗教とかかわりの強いジャンルであり,絵画において大画面の道釈人物画が衰退期に入ったのと並行し,巨視的には唐代に比較してその質的な劣勢は否定できない。一般的傾向として,華北ではかなりの期間唐様を残し,江南では宋様の特色である優美細緻な作風が早くも芽生えた。前代と比較して造像としては羅漢像の制作等が目だつ。これは道釈画における趨勢と一致し,彫刻への絵画の影響と理解される。代表的な作例として四川省の大足(だいそく)石刻があげられるが,ここには人物像に現実性を表現する宋代彫刻の特色がよくあらわれており,彫刻の絵画的表現への従属傾向を示している。唐代には彫塑の作家として名を残す人物もあったが,宋代では彫塑の制作は職人にまかせられ,絵画の分野のように知識人がこれに干渉することもなく,技術的には絵画の彩色法の彫刻への応用の記述が残されていることなど,なまなましいまでの表現に宋代彫塑の積極面を評価することができるとしても,宋代の彫塑がその彫塑性の本質において唐代に比肩することは難しい。
宋代の美術で高く評価される分野に絵画に次いで陶磁がある。この時代各地に興った陶窯は高度の技術水準に達し,形態,意匠の美しい器物を大量に生産した。全般的傾向として宋の陶磁器は唐代のそれが豊満な器形でふっくらとした感覚に支配されているのに対し,引き締まった厳しく鋭い形をもつ。これは絵画における唐と宋との関係と同様であり,ことに豊満な唐風美人画と清潔感のある宋の美人画の対比に似ている。宋の陶磁は簡潔明晰な形と色にその特色があるといえよう。色彩のうえでも,唐の三彩や明の赤絵のような華麗さはなく,白,黒が基調であり,これが端正な器形と呼応する。宋の陶磁も北宋様式と南宋様式に区分されるが,徽宗皇帝のころに北宋様式は頂点に達し,南宋ではそれは下降線に向かう。この点も院体画の趨勢と似ているといえよう。北宋の諸窯としては定窯,汝窯,北宋官窯,磁州窯,鈞窯,景徳鎮窯等が名高い。南宋時代には華北は金の統治下に入り,江南の諸窯中心に制作が行われた。竜泉窯,南宋官窯,建窯,吉州窯等が代表的な陶窯である。宋代の陶磁は官窯等に直接に宮廷趣味の反映が認められ,絵画の場合と同じく極度の洗練度に到達したと考えられる。
建築では北宋末に至り伝統様式から脱却して新様式が確立した。その結果を示すものが李誡(りかい)の《営造法式》である。建築においても宋が独自の様式を完成させるのは仁宗から徽宗にかけての時代であった。壇廟建築を例にとると,祭祀の論理を現実化しようとする試みが強く認められ,この理論的傾向が宋独自の建築様式を支えている。ここにも絵画における宋学の影響,博物学的興味の反映といった現象と共通の要因を指摘できよう。徽宗時代の主都汴京(べんけい)は,宮殿を中心に街路樹まで規定された都市計画を誇っていた。宋代建築の論理性はその構造・外観にもあらわれており,その明晰な形態,簡潔な形態感は,絵画,陶磁等に見られるものと一致する。
宋の美術全般を俯瞰してみるとき,中国人の視覚的世界が唐風の豊麗さから離脱して,煩瑣なものを拒否し,まったく新しい明快で論理的な簡潔さへと向かっていることを知りうる。美術以外の分野でも,例えば儒学において簡易直截さを尊ぶ宋学の出現等の現象が認められ,中国人の精神そのものが唐から宋へ大きく変化していることがわかる。
執筆者:戸田 禎佑
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報