黒田荘(読み)くろだのしょう

改訂新版 世界大百科事典 「黒田荘」の意味・わかりやすい解説

黒田荘 (くろだのしょう)

伊賀名張郡にあった東大寺領荘園。10世紀中葉,東大寺は寺領板蠅杣(いたばえのそま)の四至を笠間川から名張川まで拡張し,四至外の宇陀・名張両川左岸の山麓地域を領有。さらに11世紀前半には,官符や国符によって拡張された杣四至の公認と住人・杣工(そまく)らの臨時雑役免除を獲得し,杣から荘園への転換を図る。このころより,雑役免の特典を生かした荘民による河東の公領への出作が進むが,やがて荘民らは出作田を荘内と称して官物(かんもつ)を対捍したため国衙側の反撃をうけ,国衙との間に2度にわたって武力衝突が起きた(天喜事件)。しかし1056年(天喜4)に至り,四至の牓示(ぼうじ)を打ち直し黒田荘を国使不入,国役免除とする官宣旨が出され,宇陀・名張両川以西の田地を本免田とする黒田本荘が成立する。これ以降も荘民の出作が公民の荘寄人化の動きをともなって広範に展開していくが,彼らは出作地の官物の所定額が東大寺に納められる御封便補の制度を利用して官物の減額を要求し,対捍を続けたため,11世紀末から官物の賦課額を反別2斗だとする東大寺と3斗を主張する国衙との間で官物率法をめぐる相論が執拗に繰り返される。12世紀に入ると,国衙は簗瀬村の開発を通じて成長した源(丈部)氏を利用して荘寄人と化していた公民の再把握に乗り出すが,まもなく東大寺は荘官組織を整備するとともに,荘民たちを東大寺に服属させるための新たな支配イデオロギー(寺奴の論理)の投入や東南院など子院による出作地の村々の私領主権の獲得によって,これに対抗した。さらに東大寺は支配を強化すべく預所(あずかりどころ)制を導入,現地に派遣した預所覚仁の武力行使によって,国衙側の拠点であった簗瀬保司源俊方を追放した後,1174年(承安4)に至り,ついに後白河院庁下文によりこの地域の一円不輸寺領化に成功する。

 拡大された黒田荘は本荘,出作(荘民が耕作し作手(つくて)としての権限を保持していた田畠),新荘(もともと公民が耕作していた田畠)からなり,東は現在の名張市青蓮寺,南は竜口,西は西山連峰,北は夏焼・蔵持に及ぶ名張郡の主要部を荘域として占めた。これら黒田荘を構成する諸荘はいずれも東大寺を本家としながらも,出作と簗瀬荘(出作から分立)は東南院,新荘は尊勝院と領家職を異にし,本寺の直轄地である本荘を除き,その荘務権はそれぞれの領家が掌握した。田数は平安末期には本荘が25町8反余,出作・新荘が簗瀬村を含め289町2反余であった。また田地は年貢が免除される除田を除くと,公事が賦課される公事負田と公事免除の田率間田とに分かたれ,これらは百姓名に編成された。百姓名編成は平安末期に着手され,鎌倉初期に固定されたとみられる。荘民を寺奴とみなす東大寺は強大化して支配の障害となる在地領主(武士)の存在を容認することはできなかったが,一方では広大な荘域を支配するためには寺家に従順な中小領主を積極的に荘官として登用せざるをえなかった。本荘・出作の下司大江氏,新荘下司源氏などがそうである。鎌倉後期に入ると,職(しき)の分化や脇名の形成にみられる在地構造の変化を背景に,これら中小領主が支配権の拡大・強化を図り,一般荘民も巻き込んで,東大寺に反逆する動きを示すようになる。いわゆる黒田荘の悪党である。弘安年間から活発になる悪党の行動は,必ずしも全荘民の支持をうけたものではなかったが,たび重なる東大寺・六波羅・守護の鎮圧にもかかわらず,南北朝期まで続き,東大寺の支配を動揺させた。14世紀後半に至り,守護勢力の強大化にともない,悪党の活動下火になるが,これ以降,東大寺は在地の土豪連合,さらには名張郡に進出してきた大和の国人勢力との妥協の上に立って支配を維持しえたにすぎなかった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「黒田荘」の意味・わかりやすい解説

黒田荘
くろだのしょう

伊賀(いが)国南部の名張(なばり)盆地(三重県名張市)に存在した東大寺領の荘園(しょうえん)。8世紀中葉、東大寺に勅施入(ちょくせにゅう)された板蠅杣(いたばえのそま)に淵源(えんげん)をもつ。1034年(長元7)に板蠅杣の四至(しいし)がいちおう確定され、住人、杣工(そまく)の臨時雑役(ぞうやく)免除が認められ、1038年(長暦2)には、四至内の見作田(げんさくでん)6町余が不輸租とされ、臨時雑役を免除された杣工が50人と定められた。それ以後、公領に住む農民たちは、国衙(こくが)の課役を逃れる目的で種々の因縁によって、広い意味での荘民すなわち寄人(よりゅうど)になろうと運動し始める。これに対する国司(こくし)・国衙側の反撃によって国衙側と荘民との間に武力衝突が起き、1056年(天喜4)には四至牓示(ぼうじ)が打ち直され、黒田荘の荘域は宇陀(うだ)川の西側に限定される。しかし、これによって河西部が確固たる荘園となり、本免田25町8段半の黒田本荘が成立したのである。この本荘を基地に、荘民の出作(でづくり/しゅっさく)と公民の寄人化が進行し、宇陀川東岸の公領に広範な出作地帯が展開する。東大寺は、12世紀初頭には下司(げし)・公文(くもん)などの荘官を置いて支配組織を整備し、さらに河東部の公領矢川(やがわ)・中村の私領主権を獲得して、それを基礎に1133年(長承2)新荘をたてた。やがて、南京の悪僧と称された預所(あずかりどころ)覚仁(かくにん)の、名張郡司(ぐんじ)源俊方(としかた)を追放するなどの活躍によって、1174年(承安4)に、黒田本荘・出作・新荘の一円不輸(いちえんふゆ)寺領化に成功する。

 鎌倉後期から南北朝時代にかけての黒田荘では、数次にわたって悪党が発生し、荘園領主東大寺に反抗した。彼らの年貢対捍(たいかん)・路次狼藉(ろじろうぜき)などの諸行為には頽廃(たいはい)的な側面があり、敗北を繰り返したが、東大寺の黒田荘支配に大きな打撃を与えたことは間違いない。1439、40年(永享11、12)になると、黒田本荘・新荘において年貢の地下請(じげうけ)が成立し、荘民の成長と東大寺の荘支配の後退を如実に示している。そして戦国時代になると、1566年(永禄9)ごろに伊賀惣国一揆(そうこくいっき)が成立し、東大寺文書中に黒田荘の名はしだいにみえなくなっていくのである。

[黒田日出男]

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百科事典マイペディア 「黒田荘」の意味・わかりやすい解説

黒田荘【くろだのしょう】

伊賀国名張(なばり)郡の荘園。現三重県名張市黒田を中心に市域の大半を占めた。奈良東大寺領。755年孝謙天皇が東大寺に施入したという板蝿(いたばえのそま)を拡張し,11世紀前半に杣の四至(しいし)公認と臨時の雑役免除を獲得して荘園への基礎を築いた。新立荘園の整理を進めていた国衙(こくが)(国衙・国府)との間に衝突も起きたが,1056年,25町余の不輸不入の黒田本荘が成立。荘民による公領の出作地化や,公領住民の寄人(よりゅうど)化が進展し,1174年には黒田本荘・黒田出作および名張郡内の公民耕作地であった黒田新荘の一円不輸寺領化に成功。鎌倉後期になると荘民の反逆や本荘下司(げし)大江氏らの悪党化などで東大寺の支配は揺るぎ始め,室町時代には急速に衰退していった。→荘園整理
→関連項目東大寺文書

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「黒田荘」の解説

黒田荘
くろだのしょう

伊賀国名張郡にあった東大寺領荘園。荘域は三重県名張市付近。755年(天平勝宝7)孝謙天皇が東大寺に施入した板蠅杣(いたはえのそま)から発展した。荘園としての初見は1043年(長久4)。1038年(長暦2)杣内の見作田(げんさくでん)6町180歩の領有と杣工(そまく)50人の臨時雑役免除が認められた。これはのちに黒田本荘とよばれた。荘民は雑役免除の特権をいかして周辺の公領に出作し,しばしば国司と紛争をおこした。また出作地の領有をめぐる興福寺との相論などもあったが,12世紀半ばに覚仁(かくにん)が預所(あずかりどころ)として現地に下向し,支配を確立した。1174年(承安4)不輸不入の荘園となる。鎌倉後期以降,荘官大江氏を中心とした黒田悪党が東大寺の支配に反抗,東大寺の支配はしだいに弱体化した。

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世界大百科事典(旧版)内の黒田荘の言及

【境相論】より

… 荘園体制の形成過程である中世成立期では,荘園と公領(国衙領)の境相論が多い。例えば東大寺領伊賀国黒田荘の成立過程をみると,とくに11世紀前半には国司による荘の〈四至(しいし)(東西南北の境界)〉に立てられた牓示(ぼうじ)の抜捨てと,それに対抗する黒田荘側の武力的抵抗や牓示の打直しが繰り返されている。また対国衙領以外に,荘園相互間や荘園と在地領主の私領との間の境相論も頻発していた。…

【山論】より

…山野の境相論は用益・開発関係が相互に入り組んでおり,かつ証拠となる公験(くげん)等が十分ではないから,いったん発生すると容易に決着のつけがたいものとなった。例えば1199年(正治1)の伊賀国黒田荘と大和国長瀬荘の境相論では,〈山野谿谷の習,際目(境目)の不審出来するの日,其沙汰煩多し〉と述べられている。こうした解決困難な中世の山論では,次のような慣習法が形成された。…

【杣工】より

…そのような杣工の変化などを背景にして,平安時代後期には杣の荘園化が進行したのである。しかし板蠅杣から発展した東大寺領伊賀国黒田荘の杣工等は,鎌倉時代になっても彼ら独自の山口祭を主宰しており,また逃散にあたっては大仏の御前に斧金(斤)(ふきん)を懸け,先祖の畑(焼畑)を捨てると宣言している。鎌倉時代に入っても,なお杣工としての性格を維持していたことがうかがわれる。…

【東大寺】より

…しかし律令制の崩壊とともに荒廃するものが多く,998年(長徳4)の〈諸国諸庄田地目録案〉によると,越前国の9荘,730町余の田地は荒廃に任されていたし,摂関家を背景とした興福寺の侵略,平氏一門による寺領の押領などのほかに,別当・三綱が4年ごとに交替するため一貫した寺領経営が困難であったことや,国家機構の変質に対応しえない経営機構の欠陥により衰退を早めた。しかし一方では,伊賀国黒田荘の出作地について寺僧覚仁の国衙との論争は有名で,250町に及ぶ黒田荘が確保され,あるいは筑前国観世音寺,大和国崇敬寺の末寺化と並行して両寺の寺領を支配するなど,財源の確保を計った。鎌倉時代には周防国が当寺復興の造営料国とされ,ときに多少の変遷があったが1000石の年貢が寄せられ,幕末まで重要な財源の一つとなった。…

※「黒田荘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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