コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

黒田荘 くろだのしょう

百科事典マイペディアの解説

黒田荘【くろだのしょう】

伊賀国名張(なばり)郡の荘園。現三重県名張市黒田を中心に市域の大半を占めた。奈良東大寺領。755年孝謙天皇が東大寺に施入したという板蝿(いたばえのそま)を拡張し,11世紀前半に杣の四至(しいし)公認と臨時の雑役免除を獲得して荘園への基礎を築いた。
→関連項目東大寺文書

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて | 情報

世界大百科事典 第2版の解説

くろだのしょう【黒田荘】

伊賀国名張郡にあった東大寺領荘園。10世紀中葉,東大寺は寺領板蠅杣(いたばえのそま)の四至を笠間川から名張川まで拡張し,四至外の宇陀・名張両川左岸の山麓地域を領有。さらに11世紀前半には,官符や国符によって拡張された杣四至の公認と住人・杣工(そまく)らの臨時雑役免除を獲得し,杣から荘園への転換を図る。このころより,雑役免の特典を生かした荘民による河東の公領への出作が進むが,やがて荘民らは出作田を荘内と称して官物(かんもつ)を対捍したため国衙側の反撃をうけ,国衙との間に2度にわたって武力衝突が起きた(天喜事件)。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

黒田荘
くろだのしょう

伊賀(いが)国南部の名張(なばり)盆地(三重県名張市)に存在した東大寺領の荘園(しょうえん)。8世紀中葉、東大寺に勅施入(ちょくせにゅう)された板蠅杣(いたばえのそま)に淵源(えんげん)をもつ。1034年(長元7)に板蠅杣の四至(しいし)がいちおう確定され、住人、杣工(そまく)の臨時雑役(ぞうやく)免除が認められ、1038年(長暦2)には、四至内の見作田(げんさくでん)6町余が不輸租とされ、臨時雑役を免除された杣工が50人と定められた。それ以後、公領に住む農民たちは、国衙(こくが)の課役を逃れる目的で種々の因縁によって、広い意味での荘民すなわち寄人(よりゅうど)になろうと運動し始める。これに対する国司(こくし)・国衙側の反撃によって国衙側と荘民との間に武力衝突が起き、1056年(天喜4)には四至(ぼうじ)が打ち直され、黒田荘の荘域は宇陀(うだ)川の西側に限定される。しかし、これによって河西部が確固たる荘園となり、本免田25町8段半の黒田本荘が成立したのである。この本荘を基地に、荘民の出作(でづくり/しゅっさく)と公民の寄人化が進行し、宇陀川東岸の公領に広範な出作地帯が展開する。東大寺は、12世紀初頭には下司(げし)・公文(くもん)などの荘官を置いて支配組織を整備し、さらに河東部の公領矢川(やがわ)・中村の私領主権を獲得して、それを基礎に1133年(長承2)新荘をたてた。やがて、南京の悪僧と称された預所(あずかりどころ)覚仁(かくにん)の、名張郡司(ぐんじ)源俊方(としかた)を追放するなどの活躍によって、1174年(承安4)に、黒田本荘・出作・新荘の一円不輸(いちえんふゆ)寺領化に成功する。
 鎌倉後期から南北朝時代にかけての黒田荘では、数次にわたって悪党が発生し、荘園領主東大寺に反抗した。彼らの年貢対捍(たいかん)・路次狼藉(ろじろうぜき)などの諸行為には頽廃(たいはい)的な側面があり、敗北を繰り返したが、東大寺の黒田荘支配に大きな打撃を与えたことは間違いない。1439、40年(永享11、12)になると、黒田本荘・新荘において年貢の地下請(じげうけ)が成立し、荘民の成長と東大寺の荘支配の後退を如実に示している。そして戦国時代になると、1566年(永禄9)ごろに伊賀惣国一揆(そうこくいっき)が成立し、東大寺文書中に黒田荘の名はしだいにみえなくなっていくのである。[黒田日出男]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

世界大百科事典内の黒田荘の言及

【境相論】より

… 荘園体制の形成過程である中世成立期では,荘園と公領(国衙領)の境相論が多い。例えば東大寺領伊賀国黒田荘の成立過程をみると,とくに11世紀前半には国司による荘の〈四至(しいし)(東西南北の境界)〉に立てられた牓示(ぼうじ)の抜捨てと,それに対抗する黒田荘側の武力的抵抗や牓示の打直しが繰り返されている。また対国衙領以外に,荘園相互間や荘園と在地領主の私領との間の境相論も頻発していた。…

【山論】より

…山野の境相論は用益・開発関係が相互に入り組んでおり,かつ証拠となる公験(くげん)等が十分ではないから,いったん発生すると容易に決着のつけがたいものとなった。例えば1199年(正治1)の伊賀国黒田荘と大和国長瀬荘の境相論では,〈山野谿谷の習,際目(境目)の不審出来するの日,其沙汰煩多し〉と述べられている。こうした解決困難な中世の山論では,次のような慣習法が形成された。…

【杣工】より

…そのような杣工の変化などを背景にして,平安時代後期には杣の荘園化が進行したのである。しかし板蠅杣から発展した東大寺領伊賀国黒田荘の杣工等は,鎌倉時代になっても彼ら独自の山口祭を主宰しており,また逃散にあたっては大仏の御前に斧金(斤)(ふきん)を懸け,先祖の畑(焼畑)を捨てると宣言している。鎌倉時代に入っても,なお杣工としての性格を維持していたことがうかがわれる。…

【東大寺】より

…しかし律令制の崩壊とともに荒廃するものが多く,998年(長徳4)の〈諸国諸庄田地目録案〉によると,越前国の9荘,730町余の田地は荒廃に任されていたし,摂関家を背景とした興福寺の侵略,平氏一門による寺領の押領などのほかに,別当・三綱が4年ごとに交替するため一貫した寺領経営が困難であったことや,国家機構の変質に対応しえない経営機構の欠陥により衰退を早めた。しかし一方では,伊賀国黒田荘の出作地について寺僧覚仁の国衙との論争は有名で,250町に及ぶ黒田荘が確保され,あるいは筑前国観世音寺,大和国崇敬寺の末寺化と並行して両寺の寺領を支配するなど,財源の確保を計った。鎌倉時代には周防国が当寺復興の造営料国とされ,ときに多少の変遷があったが1000石の年貢が寄せられ,幕末まで重要な財源の一つとなった。…

※「黒田荘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

黒田荘の関連キーワード出作(でづくり)日本年号一覧国衙・国府在地領主制荘園整理藤原実遠不輸不入大江清定服部持法金王盛俊服部氏源俊方有徳銭尾張国下司覚仁定使津料悪党

今日のキーワード

きらきらネーム

俗に、一般的・伝統的でない漢字の読み方や、人名には合わない単語を用いた、一風変わった名前のこと。名字についてはいわない。どきゅんネーム。[補説]名前に使用する漢字は、戸籍法により常用漢字・人名用漢字の...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android

黒田荘の関連情報