日本歴史地名大系 「観心寺庄」の解説
観心寺庄
かんしんじのしよう
観心寺近郷にあった同寺領庄園。寿永元年(一一八二)八月二八日付高野山僧鏡尋解(石山寺所蔵聖教目録裏文書)に初見。この解は、当庄を吉野金峯山寺に寄進しようと計った庄民則安らを訴えた鏡尋に対し、則安らがかえって訴えを起こし、鏡尋の私領田畑が召上げられ麦を刈取られたことに対し、本家政所の裁定を請うた文書。本家は明記はないが、治承三年(一一七九)当時
嘉元四年(一三〇六)一二月二一日付の僧慶順田地売券に「河内国錦部郡観心寺御庄領小西見郷」とみえるように、庄の下に郷(村)がみられ、南北朝時代からは七郷(七村)と称される(弘和三年一二月九日付長慶天皇綸旨など)。その七郷とは文亀元年(一五〇一)とみられる観心寺七郷納帳によれば、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報