日本大百科全書(ニッポニカ) 「畠山満家」の意味・わかりやすい解説
畠山満家
はたけやまみついえ
(1372―1433)
室町時代の武将。基国(もとくに)の子。尾張守(おわりのかみ)、右衛門佐(うえもんのすけ)、左衛門督(かみ)。1399年(応永6)に従(じゅ)五位上に昇進したが、将軍足利義満(あしかがよしみつ)に忌避され、応永(おうえい)の乱では大内義弘(よしひろ)を追討し功をあげたが、なお許されなかった。1406年の父基国の死後は弟満慶(みつよし)が家督を嗣(つ)ぎ、満家は河内(かわち)、紀伊(きい)、越中(えっちゅう)、能登(のと)の四か国守護となった。しかし、1408年の義満の死後は満慶より家督を譲られ、能登を残して三か国守護となり、さらに大和(やまと)宇智(うち)郡の分郡守護ともなった。将軍義持(よしもち)・義量(よしかず)の下で10年から12年までと、21年から29年(永享1)までの二度管領(かんれい)に補任(ぶにん)され、晩年には山城(やましろ)守護ともなった。義持の死後の後継者問題では三宝院(さんぽういん)門跡満済(まんさい)らと石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)で籤(くじ)を引き青蓮院義円(しょうれんいんぎえん)(義教(よしのり))に決定したことは有名。『建内記(けんないき)』には、満家は文字に疎く、畳字(じょうじ)(漢字の熟語)などが理解できないので、和語でわかりやすく話す必要があるとみえている。永享(えいきょう)5年9月19日没。法号は真観寺殿直源道端。
[石田晴男]
『米原正義著『戦国武士と文芸の研究』(1976・桜楓社)』▽『小川信著『足利一門守護発展史の研究』(1980・吉川弘文館)』