〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉
天平一九年(七四七)聖武天皇の命で建立されたと伝え(三宝絵詞)、天皇が奈良東大寺の盧舎那仏の金箔がないことを憂えていたところ、当地に伽藍を建立し、如意輪法を修せば金宝ができるという夢告があり、「栗太郡勢多村下一勝地」に建立したのが石山寺で、如意輪観音と執金剛神像を安置したという(東大寺要録)。「扶桑略記」天平二一年一月四日条にもほぼ同じ話を載せるが、「志賀郡瀬田江辺」で老翁が石に座しているので、その上に観音像を造るよう託宣があったとしている。いずれも瀬田とするのが注目されるところで、また同条に良弁がこの件で祈誓したことが記されるが、良弁が当寺の創立者とされるのは、のちの増改築の中心になったためという。増改築以前は仏堂一宇・板葺板倉一宇・板屋九宇などの寺院であったという。
この増改築は、天平宝字三年(七五九)建設が始まった
西天山妙行院と号し、天台宗。本尊十一面観世音菩薩。寛元年中(一二四三―四七)道円の開基と伝え、当寺の十一面観音は、近江の石山寺の観音と同木であるゆえに寺号を石山寺とよぶ(尾張名所図会)というが、近江の石山寺のものは塑像であり、当寺のは木像である(徇行記)。往古は石山寺・無量寺・福田寺・光蔵寺・光善寺の五院があったが、衰微して石山寺だけが残った。石山寺に安置される阿弥陀・薬師・地蔵などはそれらの寺の本尊であった。近くに
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
滋賀県大津市石山寺にある真言宗東寺(とうじ)派の別格本山。石光山(せっこうざん)と号する。西国(さいごく)三十三所第13番札所。749年(天平勝宝1)、聖武(しょうむ)天皇の勅願により、良弁(ろうべん)が開創。東大寺大仏の鋳造、荘厳(しょうごん)のため諸国に黄金を求めたとき、勅を受けた良弁が、石山の地の岩上に天皇御持仏の如意輪観音(にょいりんかんのん)像を安置、草庵(そうあん)を結んで祈願したところ、まもなく陸奥(むつ)国からの黄金献上という奇瑞(きずい)を得て、この地に寺を開いた。そして良弁は1丈6尺(約4.8メートル)の観音像をつくり、その中に先の像を納めて本尊としたと伝えられ、以来勅願寺として朝野の信を集め、参詣(さんけい)者が相次いだ。初め東大寺(華厳(けごん)宗)に属していたが、平安中期に真言密教に改められ、観賢(かんげん)、淳祐(じゅんゆう)らが住した。1078年(承暦2)伽藍(がらん)を焼失したが、翌1079年一部を再興。建久(けんきゅう)年間(1190~1199)に源頼朝(よりとも)が再建し、多宝塔を寄進したという。さらに寛元(かんげん)年間(1243~1247)に叡尊(えいそん)が再興、現存の本尊(如意輪観世音半跏像(かんぜおんはんかぞう)。国の重要文化財)をつくった。像は秘仏となっており、歴代天皇の即位の初歴に開扉する定めであるが、今日では33年に一度開帳される。1604年(慶長9)豊臣秀頼(とよとみひでより)と淀君(よどぎみ)の寄進により修造が行われた。
山腹に南面した本堂は相の間(あいのま)と懸造(かけづくり)の礼堂(らいどう)が付加されており、内陣に平安後期の遺風を残している。多宝塔は鎌倉時代の遺構で、わが国最古の整美を誇り、本堂とともに国宝である。また東大門、鐘楼、宝篋印塔(ほうきょういんとう)が国の重要文化財に指定されている。寺宝には、中国唐代の『玉篇(ぎょくへん)』や平安時代の古文書(こもんじょ)など国宝10点のほか、観世音菩薩(ぼさつ)立像、釈迦如来(しゃかにょらい)像、維摩居士(ゆいまこじ)像、厄除不動明王(やくよけふどうみょうおう)像、淳祐内供坐像(ないくざぞう)、『石山寺縁起絵巻』『源氏物語絵巻』『石山寺一切経』など国の重要文化財も多い。本堂の傍らには紫式部が『源氏物語』を執筆したといわれる「源氏の間」があり、『蜻蛉(かげろう)日記』『枕草子(まくらのそうし)』『和泉式部(いずみしきぶ)日記』『更級(さらしな)日記』などにも当寺がしばしば登場し、また歌に詠まれるなど、文学とのゆかりも深い。
寺域は瀬田川に臨む景勝の地で、古来「石山の秋月」として名高く、近江(おうみ)八景の一に数えられる。行事には石山祭(5月1日)、青鬼ほたる祭(6月中旬)、石山観音千日会(8月9日)、名月紫式部祭(中秋名月の日)などがある。
[金岡秀友]
『井上靖・塚本善隆監修『古寺巡礼 近江 2 石山寺』(1980・淡交社)』
滋賀県大津市にある真言宗の寺。山号は石光山。東大寺造営のとき,近江からの用材を集荷した〈石山院〉という役所をもとに,東大寺の僧良弁(ろうべん)が762年(天平宝字6)ごろ,これを寺院に改めたのが当寺の始まりである。そののち平安時代,醍醐寺を開創した聖宝(しようぼう)が初代の座主(ざす)になって,当寺はこれまでの東大寺末の華厳宗の寺から,真言密教の寺院となった。このころすでに当寺の本尊如意輪観音の霊験は,清水・長谷とともに天下に広まり,平安貴族や庶民の遊楽や参籠が続き,〈石山詣〉という言葉も生まれた。参籠者のなかには,紫式部や和泉式部,また赤染衛門など当代一流の女流作家の名も見える。紫式部が当寺において湖上の月を眺めながら《源氏物語》の筆をおこしたという有名な伝承も,遅くとも室町後期には成立し,またそれを裏づけるかのように,本堂の一隅にこれにちなむ〈源氏の間〉と称する部屋がいまに残されている。当寺の観音信仰は,中世以降もますます盛んとなり,西国三十三所観音霊場の巡礼の風習がおこると,当寺は第13番札所となって,今日まで庶民の巡礼で賑わうこととなった。鎌倉期から江戸期にかけて書きつがれた7巻本の当寺伝蔵の《石山寺縁起》(重文)は,観音霊験を喧伝すべく制作されたものであって,このなかでは当寺の開創について,東大寺大仏の造立にあたって聖武天皇から金山の探索を命じられた良弁が,当地に観音像を安置して祈念したところ,陸奥で黄金が発見されてめでたく大仏造立が完成したとの観音霊験の伝承を伝えている。創建当初の建物は1078年(承暦2)の火災で全焼したが,そののち復興され,現存の堂宇は鎌倉期以降に改築されたものが多い。なかでも,国宝の本堂は藤原期の古式を残し,また源頼朝が寄進したという多宝塔(国宝)は,真言宗独特の宝塔で鎌倉期の様式をみせ,均整のとれた構造美で有名である。1573年(天正1),織田信長と足利義昭の争いに巻きこまれた当寺は戦後しばらく荒廃したが,1602年(慶長7)淀君の援助で堂宇を修理し,江戸時代には寺領高579石,寺観も安定をとりもどした。寺地は瀬田川の西方にあり,境内には石山の名にふさわしく奇岩怪石が多く,伽藍は山岳寺院形式で配置され,周辺は風光明媚,古来〈石山秋月〉は近江八景の随一として著名である。
執筆者:藤井 学
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滋賀県大津市石山寺にある東寺真言宗の別格本山。西国三十三所観音第13番札所。石光山(しゃっこうざん)と号す。749年(天平勝宝元)聖武天皇の勅願で良弁(ろうべん)の開基と伝える。造石山寺所が設けられ,761年(天平宝字5)から翌年にかけて諸堂が整えられた。はじめ東大寺と関係が深かったが,平安時代には真言の道場となり,聖宝(しょうぼう)(初代座主)や観賢(2代)・淳祐(3代)ら多数の名僧を輩出。また観音信仰の隆盛にともなって天皇や貴族らの信仰を集め,参詣者があいついだ。1078年(承暦2)火災で全焼,現存の本堂は96年(永長元)の再建。多宝塔は1194年(建久5)の建立で源頼朝の寄進という。本堂・多宝塔が国宝に指定されているほか,「延暦交替式」など多数の国宝を所蔵する。
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…《万葉集》の〈藤原宮の役民の作る歌〉に〈衣手の 田上山の 真木さく 檜の嬬手(つまで)を もののふの 八十氏河(やそうじがわ)に 玉藻なす 浮かべ流せれ〉とあるように,田上山のヒノキの角材を宇治川に流して木津川へ入れ,藤原京造営の用材とした。762年(天平宝字6)の石山寺造営には,造東大寺司管轄下の山林として国家から指定されている。石山寺の用材の大部分は田上杣で伐採されたが,伐採作業は田上山作所の監督官である領2人の下に,専門工人の司工2人,鉄工1人と臨時工人の雇工3人,様工6人,仕丁10人のほか,運送に従事する仕丁,雇夫によって進められた。…
※「石山寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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