畠山持国(読み)はたけやまもちくに

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

畠山持国
はたけやまもちくに

[生]応永5(1398).山城
[没]康正1(1455).3.26. 山城
室町時代初期の武将。室町幕府の管領 (在職 1449~52) 。法名,徳本。河内,紀伊などの守護。尾張守,左衛門督。嘉吉の乱の直後,赤松満祐を播磨白旗城に攻めたが,のち赤松氏の再興を助けた。家臣が持国の養子政長を擁立して実子義就を排斥したことから畠山氏は2流に分裂,応仁の乱の一因をなした。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

畠山持国 はたけやま-もちくに

1398-1455 室町時代の武将。
応永5年生まれ。畠山満家の長男。足利義教(よしのり)にきらわれたが,義教没後,家督をつぐ。宝徳元年(1449)足利義政を将軍に擁立し管領(かんれい)となる。弟持富を養子としたが,のちに生まれた実子義就(よしなり)に家督をつがせようとして内紛をひきおこし,応仁(おうにん)の乱の一因となった。享徳4年3月26日死去。58歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

畠山持国

没年:康正1.3.26(1455.4.12)
生年:応永5(1398)
室町時代の武将。父は満家。尾張守,左衛門督。父満家の死により,家督と河内・紀伊・越中・山城守護職を継ぐ。嘉吉1(1441)年1月,将軍足利義教の勘気を受けて河内に出奔。関東の結城攻めを拒否したためとも,義教の畠山家への干渉を事前に察知したためともいう。家督は異母弟の持永に与えられた。同年6月の義教暗殺後,室町幕府は義教により改易された所職の返還方針をとったが,持永とその被官が抵抗したため,持国は実力で復帰。持国出奔時の管領で,その復帰に消極的であった細川持之が翌年6月病気により辞任したあとを受けて持国が管領に任ぜられたことは,将軍不在の幕府内にあって細川家との対立を深めた。また持国は,いったん弟の持富を家督後継者としながら,文安3(1446)年急に実子義就を家督と定めたため,家臣団を二分する畠山家分裂の因をつくった。<参考文献>今谷明『守護領国支配機構の研究』

(石田晴男)

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

畠山持国
はたけやまもちくに
(1398―1455)

室町時代前期の武将。1398年(応永5)幕府管領(かんれい)満家の嫡男として生まれ、相伴衆(しょうばんしゅう)に列する。1433年(永享5)父の死没により家督を継ぎ、河内・紀伊・越中各国の守護となる。また尾張守や左衛門督(さえもんのかみ)を歴任後1441年(嘉吉1)2月27日叙爵、その後出家して徳本(とくほん)と号す。叙爵直前の正月29日将軍義教(よしのり)から関東下向を命じられたが拒み、勘気を蒙り河内国に籠っている。家督は義教が重用した弟持永(もちなが)が継いだが、同年6月の嘉吉の乱で義教が討たれると、赤松満祐(あかまつみつすけ)を播磨国白旗城(しらはたじょう)に攻めて幕府に復帰。その後持永を滅ぼし、翌年管領に就任して幼い新将軍義勝を助け、1445年(文安2)細川勝元に管領を交替した。しかし加賀国守護富樫(とがし)氏内の紛争をめぐり細川氏と対立、1449年(宝徳1)再び管領となり、山城国守護も兼ねて将軍義成(よししげ)(のちの義政)を支えながら、勢力の拡大に努めた。1452年(享徳1)管領を退くと勝元らに牽制され、また養子持豊と実子義就(よしなり)との間に家督相論を起こし、これに勝元・山名宗全両氏を巻き込み、この問題は激化した。1455年(康正1)3月26日没。[櫻井 彦]
『今谷明著『守護領国支配機構の研究』(1986・法政大学出版局) ▽山田邦明著『日本中世の歴史5 室町の平和』(2009・吉川弘文館)』

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