託麻国府跡
たくまこくふあと
[現在地名]熊本市国府二―四丁目・国府本町
肥後国府は最初益城郡にあったといわれ、益城国府跡は下益城郡城南町陳内字舞ノ原に比定されている。その後奈良時代中期に託麻郡に移ったと考えられている。その理由として熊本平野での条里の進行、江津の湧水、木山川・赤井川・矢形川の治水による湿地の干陸化が行われたからであろう。益城国府が熊本平野の南にかたよりすぎていたため、国分寺・国分尼寺建立を機に、国府を熊本平野の中央に移したものと考えられている。昭和三七年(一九六二)の二次にわたる発掘調査の結果、一辺約二〇〇メートルの土塁とその外側の水路を切断し、築地に付属するとみられる柱穴を検出した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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