日本歴史地名大系 「誠之館跡」の解説
誠之館跡
せいしかんあと
[現在地名]福山市霞町一丁目
阿部氏七代正弘の時、嘉永七年(一八五四)九月に着工、同年一二月(改元されて安政元年)に完工、開講した福山藩藩校。現市民会館の建つ地域にあった下屋敷や武家の住宅を取除いて学舎敷地としたもので、四千二〇〇坪、付属練兵場一万八千余坪に及んだ。ここに学堂を中心に講武館・書籍寮・各武術稽古場・倉庫などが連なり、当時としては全国でもまれにみる一大学園であった。
当時正弘は幕府老中筆頭として国務を総攬していたが、嘉永六年には浦賀沖にペリーの率いる米国の軍艦が来航し開国を迫るなど、世情騒然としていた時である。開校の趣旨については建設の中心となった側用人兼儒者関藤藤陰が「阿部家記近事鈔」に詳記している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報