護佐丸(読み)ごさまる

日本大百科全書(ニッポニカ) 「護佐丸」の意味・わかりやすい解説

護佐丸
ごさまる
(?―1458)

中世沖縄の有力按司(あんじ)。履歴には不明の点が多い。初め山田城に拠(よ)る按司であったが、のちに座喜味(ざきみ)城を拠点とする読谷山(ゆんたんざ)按司となったという。1416年(応永23)尚巴志(しょうはし)の北山(ほくざん)征討に加わって武勲をあげ、第一尚氏王朝による統一事業が完成すると中城(なかぐすく)按司となり、王朝に信任の厚い最強の按司の地位を占めた。その娘は時の国王尚泰久(しょうたいきゅう)の妃となり、外戚(がいせき)として発言力も強かったという。やがて勝連(かつれん)按司阿麻和利(あまわり)と対立し、その謀略によって58年(長禄2)国王軍の討伐を受け滅亡したと伝えられる。彼を祖と仰ぐ毛氏(もううじ)は近世の有力門閥を形成し、その家伝をもとに近世では「忠臣」として史書や組踊(くみおどり)などで盛んに喧伝(けんでん)された。

[高良倉吉]

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朝日日本歴史人物事典 「護佐丸」の解説

護佐丸

没年:尚泰久5(1458)
生年:生年不詳
15世紀の琉球で活躍した按司(豪族)。唐名毛国鼎。沖縄本島中部の山田グスク(恩納村),座喜味グスク(読谷村)を居城としたのち,中城(中城村)城主となる。護佐丸の娘が尚泰久王の妃であったといわれるから,中山王権に近い有力按司のひとりであったであろう。尚泰久5(1458)年,護佐丸が謀反を企んでいると,勝連城主阿麻和利が泰久に讒訴したため,中山軍と阿麻和利に攻められ,一幼児を残し一家自刃した。阿麻和利は,こののち,かえす刀で中山王権を奪取しようと首里城を攻めたが失敗した(護佐丸・阿麻和利の変)。この争乱の原因について,奄美大島との貿易をめぐる主導権争いとみる仲原善忠(沖縄歴史研究者)の説もあるが,真相は明らかではない。

(真栄平房昭)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「護佐丸」の解説

護佐丸 ごさまる

?-1458 琉球の武将
娘が琉球王尚巴志(しょう-はし)の妃となり,首里城をまもる中城(なかぐすく)城主に封じられる。勝連城主阿麻和利(あまわり)の王位への野望をみぬくが,逆に中傷されて攻められ,尚泰久王5年自害した。唐名は毛国鼎(もう-こくてい)。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の護佐丸の言及

【中城[村]】より

…海岸沿いの肥沃な沖積低地と背後の丘陵地からなる。第一尚氏王統の尚泰久時代(1454‐60)に忠臣護佐丸が与勝(よかつ)半島の勝連(かつれん)城に拠る阿麻和利への抑えとして配され,北部台地上に中城城を築城ないし増築した。だが阿麻和利は逆に讒訴(ざんそ)して討手となり中城城を攻撃,護佐丸は一矢も報いず自刃した。…

※「護佐丸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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