首里城(読み)しゅりじょう

日本の城がわかる事典の解説

しゅりじょう【首里城】

沖縄県那覇市首里にあった琉球王朝の王城。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地に築城され、県内最大規模を誇った。城は外郭内郭からなり、御庭(うなー)と呼ばれる広場に面して立つ正殿・北殿・南殿・奉神門などの建物は内郭に集中している。内郭には瑞泉門(ずいせんもん)、漏刻門(ろうこくもん)など9つの門が、外郭には歓会門、久慶門など4つのアーチ門があった。戦前は正殿などが国宝であったが、1945年(昭和20)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残った。本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年(平成4)に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。2000年(平成12)には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたが、登録は「首里城跡(しゅりじょうあと)」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではない。市内線バスで首里城公園入口下車、徒歩約5分。

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デジタル大辞泉の解説

しゅり‐じょう〔‐ジヤウ〕【首里城】

沖縄県那覇市にある旧琉球王城。15世紀から19世紀まで尚氏居城であった。昭和20年(1945)の沖縄戦で灰燼に帰したが、その後、守礼門正殿などが復元された。平成12年(2000)復元前から残る城壁の一部などが「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録された。→琉球

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百科事典マイペディアの解説

首里城【しゅりじょう】

那覇市北東部の丘陵にある旧琉球王城。1406年尚巴志(しょうはし)の中山(ちゅうざん)攻略以後,1879年の琉球処分による明渡しまで,尚巴志王統(第一尚氏)7代,尚円王統(第二尚氏)19代の居城。石積みの二重の城壁は沖縄独特の波状形で,外郭にはアーチ門が付く。主郭の正殿は和漢折衷の木造3階建。1458年には殿内に〈万国津梁(ばんこくしんりょう)の鐘〉が掛けられた。正殿両翼には冊封使接待所で内装が中国風の北殿と,薩摩役人接待所で和風の南殿があり,北殿は通常評定(ひょうじょう)所に使用。これらの建物に囲まれた〈御庭〉と呼ばれた広場が,城の中枢的空間で,種々の儀式を行った。建物は数度火災に遭うが,その都度再建,1925年国の特別保護建造物に指定された。1944年地下に第32軍司令部が造られたため,翌年米軍の爆撃をうけて完全に破壊。戦後,琉球大学のキャンパスとなるが,守礼(しゅれい)門などが復元され,1992年正殿・北殿・南殿を復元。国指定史跡。2000年首里城跡は,ほかの琉球王国時代の八つのグスクなどとともに世界文化遺産に登録された。→尚氏首里王府
→関連項目沖縄[県]グスク首里琉球文化琉球貿易

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世界大百科事典 第2版の解説

しゅりじょう【首里城】

沖縄県那覇市首里当蔵町にある旧琉球王城。御城(うぐすく)ともよばれる。東西400m,南北270mで県下最大の規模をもつ。14世紀末ごろ察度(さつと)が中山の出城として築城したといわれる。1406年尚巴志が中山を攻略して以後,〈琉球国〉支配の中心地となり,1879年まで尚巴志王統7代,尚円王統19代の居城であった。伝説では巴志は大里城の城壁を壊し,その石を手渡しで首里城へ運び大修築したともいわれる。また,明の冊封使を迎えるため,1427年竜漳池をつくった。

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大辞林 第三版の解説

しゅりじょう【首里城】

沖縄県那覇市にある琉球王朝の城。一五世紀中頃、第一尚氏の時に整備された。1945年(昭和20)の沖縄地上戦でアメリカ軍の砲撃により焼失。第二次大戦後、城址内に琉球大学が置かれていたが移転。92年(平成4)正殿などが復元された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

首里城
しゅりじょう

沖縄県那覇(なは)市首里当蔵(とうのくら)にある城跡。琉球(りゅうきゅう)王国時代の王宮にあたり、東西最長約400メートル、南北最長約270メートル、全体に楕円(だえん)形の城域をもつ。面積4万6167平方メートルの規模をもち、堅牢(けんろう)な石垣で囲まれていた。外郭に四つの石造拱門(きょうもん)(アーチ門)、内郭に八つの門があり、その内部には正殿をはじめ多くの施設が建ち並んでいた。有名な守礼門(しゅれいもん)は首里城に至る第二の外門にあたる。15世紀初期に尚巴志(しょうはし)の手で整備され、以後、火災などによりしばしば損壊を受けたが、そのつど再建され、王国の拠点としての偉容を誇った。1879年(明治12)、明治政府の命により国王尚泰(しょうたい)が城を明け渡すことにより王国は崩壊、王宮としての首里城の歴史にも終止符が打たれた(琉球処分)。その後、熊本鎮台沖縄分遣隊の営所として用いられたが、伊東忠太(いとうちゅうた)らの尽力で1923年(大正12)大修築が行われ、その2年後に国宝に指定された。第二次世界大戦中の1944年(昭和19)日本軍第三二軍の司令部壕(ごう)がその地下につくられたためアメリカ軍の砲爆撃を受け全壊した。戦後、アメリカのきもいりで跡地に琉球大学ができ(1950)、1972年国指定史跡となった。その後、大学が移転したため、1986年から正殿、城壁、城門の復原工事が進められ、1992年(平成4)沖縄海洋博覧会記念公園とあわせて国営公園沖縄記念公園が開園したのに伴い、首里城跡一帯は同公園の首里城地区(首里城公園)となった。なお、首里城公園では歴史的景観の再現を目ざして、建造物や庭園の整備が続けられている。
 2000年、琉球地方の独特な文化遺産群を対象に「琉球王国のグスクおよび関連遺産群」が世界遺産の文化遺産(世界文化遺産)に登録された。登録遺産群は、(1)首里城跡、(2)園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)、(3)玉陵(たまうどぅん)、(4)識名園(しきなえん)、(5)今帰仁城(なきじんじょう)跡、(6)勝連城(かつれんじょう)跡、(7)座喜味城(ざきみじょう)跡、(8)中城城(なかぐすくじょう)跡、(9)斎場御嶽(せいふぁうたき)、の9か所であるが、首里城跡はその代表的史跡としても知られる。[高良倉吉]

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世界大百科事典内の首里城の言及

【琉球征服】より

…島津氏の目的は琉球に対する領土拡張にあった。島津軍は09年3月4日山川港を出帆,途中大島,徳之島を攻伐して沖縄島に至り,4月1日首里城を落とし,5月25日国王尚寧(しようねい)を捕虜にして鹿児島に帰陣した。7月7日家康は琉球征服の功を賞して島津氏に琉球を与えた。…

※「首里城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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