豊浦寺跡
とゆらでらあと
飛鳥川の西岸、豊浦集落の南にあった寺で、所在地の地名から豊浦寺のほか、等由良寺・小墾田豊浦寺と記され、建興寺ともいった。「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」は、仏教伝来の初め蘇我稲目が向原(牟久原)の家を寺としたのに始まるといい、敏達朝には桜井道場(桜井寺)に移され、次いで推古朝に等由良宮(等由羅宮)を寺として等由良寺(豊浦寺)と号し、宮は小墾田宮に移されたと記す。また「日本書紀」欽明天皇一三年条にも同様な所伝があって、最初稲目の小墾田家に仏像を安置し、次いで向原の家を寺としたとある。「聖徳太子伝暦」には舒明天皇六年に豊浦寺の塔の心柱を立てたと記しているので、完成までにはかなりの年月を要したことになる。「日本書紀」朱鳥元年(六八六)一二月条に大官・飛鳥・川原・坂田の四寺とともにここで無遮大会を設けたとある。
「万葉集」巻八に載る「故郷の豊浦寺の尼の私房に宴する歌三首」と題した「明日香川行き廻る岳の秋萩は今日降る雨に散りか過ぎなむ」という丹比真人国人の歌によって、奈良時代に飛鳥の豊浦寺がなお尼寺としてあったことが知られる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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