推古天皇の宮居。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
603年(推古11)10月,推古天皇は,豊浦宮より小墾田宮に移る。そして,628年(推古36)3月に没するまでの間,この小墾田宮が推古朝政治の舞台となった。《日本書紀》推古12年9月条の記事,推古16年8月の隋使裴世清の入京記事,推古18年10月の新羅・任那使の入京記事,および舒明即位前紀の記事から,小墾田宮の構造が簡単ながら推測できる。すなわち,宮の南門を入ると朝庭があり,大臣・大夫らの執務する庁があった。そして,朝庭の北にある大門(閤門)を入ると,禁省(内裏)で,推古女帝のいる大殿があった。すでに,内裏の南には,いくつかの朝堂(庁)が並び立つ朝庭があって,南に門を開くという宮の基本構造が成立していた。また,612年(推古20)には,禁省内の大殿の南庭に,須弥山をかたどった構築物を置き呉橋を架けている。一種の庭園とみなすべきものだろう。推古天皇の没時には,この南庭に,殯宮(もがりのみや)が営まれた。小墾田宮の位置については,これまで,明日香村豊浦(とゆら)の古宮土壇が有力視されていた。発掘調査によれば,宮殿遺構は検出されなかったものの,7世紀前半から中葉ごろ,この地に掘立柱建物,石組み溝,S字状の庭園が営まれていたことが判明した。小墾田の地は,かつて小墾田屯倉(《日本書紀》安閑1年10月条)の存在した地であり,蘇我氏の本拠地の一つであった。蘇我蝦夷は豊浦大臣(豊浦と小墾田はごく近い)と呼ばれたし,また,蘇我氏の同族に,小墾田臣がいた。6世紀代,宮室は天香具山の北東,磐余(いわれ)に営まれるのが一般的であったが,蘇我系の推古天皇は,蘇我氏の本拠地である豊浦や小墾田に宮を営んだのである。また,小墾田の地が,阿倍山田道沿いの交通の要衝に位置することも見逃せない。こうした小墾田の地の重要性が,推古朝以降にも,小墾田をクローズアップさせることになる。655年(斉明1)10月,小墾田に宮をつくり,瓦ぶきにせんとしたが失敗裏に終わったという。また,壬申の乱当時,小墾田には兵庫があり,争奪の対象となった。奈良時代,淳仁天皇は,760年(天平宝字4)8月から翌年1月ごろにかけて,小墾田(岡本)宮に移ったことがあった。この前後に,小墾田禅院,小墾田寺の存在を示す史料もある。
執筆者:和田 萃
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推古(すいこ)天皇の宮室。『日本書紀』によると、豊浦宮(とゆらのみや)に即位した推古天皇は、603年(推古天皇11)小墾田宮に移り、崩御するまでの25年間ここに宮室を営んだ。天皇は聖徳太子、蘇我馬子(そがのうまこ)とともに、冠位十二階の制定、憲法十七条の選述、遣隋使(けんずいし)の派遣、天皇記・国記の編纂(へんさん)などの諸改革をここで行った。『日本書紀』の記事から復原すると、小墾田宮は、南から南門(宮門)、朝庭(ちょうてい)、庁、大門(閤門(こうもん))、大殿を備えており、北に内裏(だいり)、南に複数の朝堂をもつ朝庭が位置するという日本の宮室の基本構造が成立していたことがうかがえる。所在地としては、かつて金銅製四環壺(つぼ)の出土した奈良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村豊浦(とようら)北方の小字「古宮」の地が有力で、1970年(昭和45)発掘調査された。その結果7世紀の初頭から中ごろにかけて造営された玉石組(たまいしぐみ)大溝、玉石組の池や小溝からなる庭園、庭園後方の掘立て柱建物などが検出されたが、中心部の状況は不明である。文献によると小墾田宮は推古朝後も形を変えて奈良時代まで存続した。
[中尾芳治]
『奈良国立文化財研究所編・刊『飛鳥・藤原宮発掘調査報告Ⅰ』(1976)』▽『岸俊男著「都城と律令国家」(『岩波講座 日本歴史2 古代2』所収・1975・岩波書店)』
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記紀にみえる推古天皇の宮。「古事記」では小治田宮。603年(推古11)天皇は飛鳥豊浦宮(あすかのとゆらのみや)から移り住み,当宮で37年間統治したとされる。760年(天平宝字4)には淳仁(じゅんにん)天皇が小治田宮に行幸し,新京と称して諸国の糒(ほしいい)や調庸を納めさせた。宮付近には兵庫・倉庫・官衙などが存在した。現在の奈良県明日香村豊浦小字古宮に比定する説があるが,8世紀の小治田宮については雷丘(いかずちのおか)東方の官衙遺跡(明日香村雷)を比定地とする可能性が強まった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…しかし持統朝に中国風の本格的な宮室・都城として藤原宮・藤原京が営まれるに至って,歴代遷宮の風習は廃れ,さらに持統・文武2代の藤原宮都から,平城・長岡の宮都を経て,平安宮・平安京が造営されるに及び,〈万代の宮〉と定められた。
[古代の宮室]
古代の宮室のうち,ある程度その構造がわかるのは,推古天皇の小墾田(おはりだ)宮が最初である。《日本書紀》の関係記事を総合すると,この宮は南門=宮門を入ると庁=朝堂のある朝庭があり,さらに北進して閤門=大門を入ると天皇の御在所の大殿がある。…
… 日本には朝鮮から塼が伝えられた。奈良県小墾田宮跡(7世紀)から出土した蓮華文長方塼は百済系であり,福岡県の大宰府都府楼跡(8世紀)から出土する蓮華文様の塼は,明らかに新羅系とみられる。しかし,概して文様塼は少なく,無文塼のほうが一般的である。…
※「小墾田宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
働き手が自分の働きたい時間に合わせて短時間・単発の仕事に就くこと。「スポットワーク」とも呼ばれる。単発の仕事を請け負う働き方「ギグワーク」のうち、雇用契約を結んで働く形態を指す場合が多い。働き手と企...
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