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小墾田宮 オハリダノミヤ

デジタル大辞泉の解説

おはりだ‐の‐みや〔をはりだ‐〕【小墾田宮】

奈良県高市郡明日香村(あすかむら)にあったとされる推古天皇皇極天皇皇居

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百科事典マイペディアの解説

小墾田宮【おはりだのみや】

推古天皇の皇居。《日本書紀》によると,推古天皇11年,天皇は豊浦(とゆら)宮から小墾田宮に移った。宮には南門・庭・庁・大門・大殿などの施設があった。同36年天皇が没したときは大殿の南庭に(もがり)宮が設営された。

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世界大百科事典 第2版の解説

おはりだのみや【小墾田宮】

603年(推古11)10月,推古天皇は,豊浦宮より小墾田宮に移る。そして,628年(推古36)3月に没するまでの間,この小墾田宮が推古朝政治の舞台となった。《日本書紀》推古12年9月条の記事,推古16年8月の隋使裴世清の入京記事,推古18年10月の新羅・任那使の入京記事,および舒明即位前紀の記事から,小墾田宮の構造が簡単ながら推測できる。すなわち,宮の南門を入ると朝庭があり,大臣・大夫らの執務する庁があった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

小墾田宮
おはりだのみや

推古(すいこ)天皇の宮室。『日本書紀』によると、豊浦宮(とゆらのみや)に即位した推古天皇は、603年(推古天皇11)小墾田宮に移り、崩御するまでの25年間ここに宮室を営んだ。天皇は聖徳太子、蘇我馬子(そがのうまこ)とともに、冠位十二階の制定、憲法十七条の選述、遣隋使(けんずいし)の派遣、天皇記・国記の編纂(へんさん)などの諸改革をここで行った。『日本書紀』の記事から復原すると、小墾田宮は、南から南門(宮門)、朝庭(ちょうてい)、庁、大門(閤門(こうもん))、大殿を備えており、北に内裏(だいり)、南に複数の朝堂をもつ朝庭が位置するという日本の宮室の基本構造が成立していたことがうかがえる。所在地としては、かつて金銅製四環壺(つぼ)の出土した奈良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村豊浦(とようら)北方の小字「古宮」の地が有力で、1970年(昭和45)発掘調査された。その結果7世紀の初頭から中ごろにかけて造営された玉石組(たまいしぐみ)大溝、玉石組の池や小溝からなる庭園、庭園後方の掘立て柱建物などが検出されたが、中心部の状況は不明である。文献によると小墾田宮は推古朝後も形を変えて奈良時代まで存続した。[中尾芳治]
『奈良国立文化財研究所編・刊『飛鳥・藤原宮発掘調査報告』(1976) ▽岸俊男著「都城と律令国家」(『岩波講座 日本歴史2 古代2』所収・1975・岩波書店)』

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世界大百科事典内の小墾田宮の言及

【皇居】より

…しかし持統朝に中国風の本格的な宮室・都城として藤原宮・藤原京が営まれるに至って,歴代遷宮の風習は廃れ,さらに持統・文武2代の藤原宮都から,平城・長岡の宮都を経て,平安宮・平安京が造営されるに及び,〈万代の宮〉と定められた。
[古代の宮室]
 古代の宮室のうち,ある程度その構造がわかるのは,推古天皇の小墾田(おはりだ)宮が最初である。《日本書紀》の関係記事を総合すると,この宮は南門=宮門を入ると庁=朝堂のある朝庭があり,さらに北進して閤門=大門を入ると天皇の御在所の大殿がある。…

【塼】より

… 日本には朝鮮から塼が伝えられた。奈良県小墾田宮跡(7世紀)から出土した蓮華文長方塼は百済系であり,福岡県の大宰府都府楼跡(8世紀)から出土する蓮華文様の塼は,明らかに新羅系とみられる。しかし,概して文様塼は少なく,無文塼のほうが一般的である。…

※「小墾田宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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