小墾田宮(読み)オハリダノミヤ

デジタル大辞泉 「小墾田宮」の意味・読み・例文・類語

おはりだ‐の‐みや〔をはりだ‐〕【小墾田宮】

奈良県高市郡明日香村あすかむらにあったとされる推古天皇皇極天皇皇居

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精選版 日本国語大辞典 「小墾田宮」の意味・読み・例文・類語

おはりだ‐の‐みやをはりだ‥【小墾田宮】

  1. 推古天皇、皇極天皇の皇居。推古天皇一一年(六〇三)、豊浦宮から移り、崩御まで一六年間都とする。のち、皇極天皇元年(六四二)、再び都となったが、翌年飛鳥板蓋宮に移った。以後奈良時代を通じてしばしば用いられているが、これらが同一位置であったかどうかは未詳。奈良県高市郡明日香村豊浦(とようら)古宮の地とされてきたが、昭和六二年(一九八七)同村雷(いかずち)で「小治田宮」墨書土器が多数出土し、同地に確定された。小治田宮。少治田宮。

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日本歴史地名大系 「小墾田宮」の解説

小墾田宮
おはりだのみや

[現在地名]明日香村大字豊浦

推古天皇の宮居。小治田おはりだ(古事記)少治田おはりだ(法王帝説)とも書く。藤原京左京一二条二坊にあたる豊浦とようら集落北方の小字古宮ふるみやとする説が有力。現在、土壇が残っており、明治二九年(一八九六)同地から金銅製の四耳壺が出土し、この地が宮殿跡ではないかと考えられるようになった。「日本書紀」によると推古天皇一一年一〇月、豊浦とゆら宮から小墾田宮に遷都。皇極天皇も一時移り住み、皇極天皇二年四月に小墾田宮から飛鳥板蓋あすかいたぶき宮に遷都。斉明天皇元年一〇月には小墾田の地に瓦葺の宮殿を営もうとしたことがあった。同書天武天皇元年六月二九日条には小墾田兵庫の名がみえ、遷都後の小墾田宮になお官衙的施設が残っていたことがわかる。

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改訂新版 世界大百科事典 「小墾田宮」の意味・わかりやすい解説

小墾田宮 (おはりだのみや)

603年(推古11)10月,推古天皇は,豊浦宮より小墾田宮に移る。そして,628年(推古36)3月に没するまでの間,この小墾田宮が推古朝政治の舞台となった。《日本書紀》推古12年9月条の記事,推古16年8月の隋使裴世清の入京記事,推古18年10月の新羅・任那使の入京記事,および舒明即位前紀の記事から,小墾田宮の構造が簡単ながら推測できる。すなわち,宮の南門を入ると朝庭があり,大臣・大夫らの執務する庁があった。そして,朝庭の北にある大門(閤門)を入ると,禁省(内裏)で,推古女帝のいる大殿があった。すでに,内裏の南には,いくつかの朝堂(庁)が並び立つ朝庭があって,南に門を開くという宮の基本構造が成立していた。また,612年(推古20)には,禁省内の大殿の南庭に,須弥山をかたどった構築物を置き呉橋を架けている。一種の庭園とみなすべきものだろう。推古天皇の没時には,この南庭に,殯宮(もがりのみや)が営まれた。小墾田宮の位置については,これまで,明日香村豊浦(とゆら)の古宮土壇が有力視されていた。発掘調査によれば,宮殿遺構は検出されなかったものの,7世紀前半から中葉ごろ,この地に掘立柱建物,石組み溝,S字状の庭園が営まれていたことが判明した。小墾田の地は,かつて小墾田屯倉(《日本書紀》安閑1年10月条)の存在した地であり,蘇我氏の本拠地の一つであった。蘇我蝦夷豊浦大臣(豊浦と小墾田はごく近い)と呼ばれたし,また,蘇我氏の同族に,小墾田臣がいた。6世紀代,宮室は天香具山の北東,磐余(いわれ)に営まれるのが一般的であったが,蘇我系の推古天皇は,蘇我氏の本拠地である豊浦や小墾田に宮を営んだのである。また,小墾田の地が,阿倍山田道沿いの交通の要衝に位置することも見逃せない。こうした小墾田の地の重要性が,推古朝以降にも,小墾田をクローズアップさせることになる。655年(斉明1)10月,小墾田に宮をつくり,瓦ぶきにせんとしたが失敗裏に終わったという。また,壬申の乱当時,小墾田には兵庫があり,争奪の対象となった。奈良時代,淳仁天皇は,760年(天平宝字4)8月から翌年1月ごろにかけて,小墾田(岡本)宮に移ったことがあった。この前後に,小墾田禅院,小墾田寺の存在を示す史料もある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「小墾田宮」の意味・わかりやすい解説

小墾田宮
おはりだのみや

推古(すいこ)天皇の宮室。『日本書紀』によると、豊浦宮(とゆらのみや)に即位した推古天皇は、603年(推古天皇11)小墾田宮に移り、崩御するまでの25年間ここに宮室を営んだ。天皇は聖徳太子蘇我馬子(そがのうまこ)とともに、冠位十二階の制定、憲法十七条の選述、遣隋使(けんずいし)の派遣、天皇記・国記の編纂(へんさん)などの諸改革をここで行った。『日本書紀』の記事から復原すると、小墾田宮は、南から南門(宮門)、朝庭(ちょうてい)、庁、大門(閤門(こうもん))、大殿を備えており、北に内裏(だいり)、南に複数の朝堂をもつ朝庭が位置するという日本の宮室の基本構造が成立していたことがうかがえる。所在地としては、かつて金銅製四環壺(つぼ)の出土した奈良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村豊浦(とようら)北方の小字「古宮」の地が有力で、1970年(昭和45)発掘調査された。その結果7世紀の初頭から中ごろにかけて造営された玉石組(たまいしぐみ)大溝、玉石組の池や小溝からなる庭園、庭園後方の掘立て柱建物などが検出されたが、中心部の状況は不明である。文献によると小墾田宮は推古朝後も形を変えて奈良時代まで存続した。

[中尾芳治]

『奈良国立文化財研究所編・刊『飛鳥・藤原宮発掘調査報告Ⅰ』(1976)』『岸俊男著「都城と律令国家」(『岩波講座 日本歴史2 古代2』所収・1975・岩波書店)』

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百科事典マイペディア 「小墾田宮」の意味・わかりやすい解説

小墾田宮【おはりだのみや】

推古天皇の皇居。《日本書紀》によると,推古天皇11年,天皇は豊浦(とゆら)宮から小墾田宮に移った。宮には南門・庭・庁・大門・大殿などの施設があった。同36年天皇が没したときは大殿の南庭に(もがり)宮が設営された。推古天皇以後も皇極(こうぎょく)天皇1年に天皇が一時移り,655年には小墾田に宮を造り瓦葺きにしようとしている。壬申の乱では小墾田の兵庫が争奪の対象となった。宮の位置は奈良県明日香(あすか)村豊浦(とようら)の古宮土壇(ふるみやどだん)が有力視されてきた。《続日本紀》によれば淳仁天皇が760年から一時小墾田(岡本)宮に移っている。この宮が推古天皇の皇居と直接つながるかは未詳。1987年明日香村雷丘(いかずちのおか)東方遺跡で〈小治田宮〉の墨書土器が発見され,周辺の奈良時代中期の大型建物群の遺構との関係などから,淳仁天皇時代の宮の所在地とされる。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「小墾田宮」の解説

小墾田宮
おはりだのみや

記紀にみえる推古天皇の宮。「古事記」では小治田宮。603年(推古11)天皇は飛鳥豊浦宮(あすかのとゆらのみや)から移り住み,当宮で37年間統治したとされる。760年(天平宝字4)には淳仁(じゅんにん)天皇が小治田宮に行幸し,新京と称して諸国の糒(ほしいい)や調庸を納めさせた。宮付近には兵庫・倉庫・官衙などが存在した。現在の奈良県明日香村豊浦小字古宮に比定する説があるが,8世紀の小治田宮については雷丘(いかずちのおか)東方の官衙遺跡(明日香村雷)を比定地とする可能性が強まった。

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世界大百科事典(旧版)内の小墾田宮の言及

【皇居】より

…しかし持統朝に中国風の本格的な宮室・都城として藤原宮・藤原京が営まれるに至って,歴代遷宮の風習は廃れ,さらに持統・文武2代の藤原宮都から,平城・長岡の宮都を経て,平安宮・平安京が造営されるに及び,〈万代の宮〉と定められた。
[古代の宮室]
 古代の宮室のうち,ある程度その構造がわかるのは,推古天皇の小墾田(おはりだ)宮が最初である。《日本書紀》の関係記事を総合すると,この宮は南門=宮門を入ると庁=朝堂のある朝庭があり,さらに北進して閤門=大門を入ると天皇の御在所の大殿がある。…

【塼】より

… 日本には朝鮮から塼が伝えられた。奈良県小墾田宮跡(7世紀)から出土した蓮華文長方塼は百済系であり,福岡県の大宰府都府楼跡(8世紀)から出土する蓮華文様の塼は,明らかに新羅系とみられる。しかし,概して文様塼は少なく,無文塼のほうが一般的である。…

※「小墾田宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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