豊見城間切(読み)とうみぐすくまぎり

日本歴史地名大系 「豊見城間切」の解説

豊見城間切
とうみぐすくまぎり

現豊見城市域全域にあたる。北は小禄うるく間切、東は南風原ふえーばる間切・東風平くちんだ間切、南は兼城かにぐすく間切と接し、西は海に臨む。トゥミグスク間切とよぶ。島尻方一五間切の一。里積記によると首里城から南風原ふえーばる(現南風原町)の間切番所まで一里六合二勺二才(二里二二町余)

弘治一四年(一五〇一)尚円王の遺骨を移葬するために造営された現那覇市玉陵たまうどうんの玉御殿碑文には、その後に葬られる王家の九人の一人に尚真王第七子の「とよミくすくのあんし おもひふたかね」の名が記されている。蔡温本「中山世譜」巻六には「尚源道、豊見城王子と称す、後無く、母倶に伝わらず」(原漢文)とある。その娘豊見城大按司志良礼思乙金はいとこの浦添王子朝満の長男浦添王子朝喬に嫁ぎ、その次男の朝重が豊見城按司となっているが後胤はなかった(向姓小禄家家譜)。嘉靖元年(一五二二)に首里から国場こくば川まで真玉まだま道が開通し、同川に真玉まだん橋が架けられた(真珠湊碑文)。同三九年八月八日の瀬底親雲上真命宛の辞令書(田名家文書)に「とよミくすくまきりの大ミねのさとぬしところ」とみえる。万暦二五年(一五九七)の浦添城前の碑文(「琉球国碑文記」など)には、当時の三人の世あすたべ(三司官)の一人豊見城親方盛章が表に「とよミ城の大やくもい もうし」、裏に「豊見城真牛金」と記される。また豊見城親方盛続が、同四八年のようとれのひのもん・極楽山碑文(県立博物館蔵拓本)の表(ようとれのひのもん)に「とよミくすくの大やくもい」、裏(極楽山碑文)に「豊美城思符多」とみえる。なお康熙五〇年(一七一一)の「混効験集」に「てミ城 豊見城と書 とよミ城とハいはず」とある。慶長一六年(一六一一)の九月一五日付島津家久書状(旧記雑録)の宛名に江洲・名護などと並んで「豊見城」がみえる。同一八年一二月一五日に首里王府から摩文仁(親方安恒)に宛行われた知行目録(南島風土記)に「豊見城間切はひら村 我那覇村」とある。絵図郷村帳には当間切に属する当間とーま赤嶺あかんみ・あす嶺・大嶺うふんみ・たから・上原ういーばる具志ぐし(現那覇市)安波根あーぐん武富だきどうん・はひら(現糸満市)小城くぐしく(現東風平町)根差部みさしつぷ・はへはら・我那覇がなふあ宜保じーぶ座安ざー保栄茂びん平良てーら・によは・下田すむだ・せなか・中地なかち・いらは・いなんみ・おなか・とかしき・高嶺たかんみ高安たけーし金良かららながだう・かかす・真玉橋まだんばし長嶺ながんみ西原にしばる・こはさめ・ひ川・さうす・下座安・めーはるの三九ヵ村が載る。

正保国絵図では「豊見城間切とよみぐすくまぎり」の高三千一三七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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