真和志間切(読み)まーじまぎり

日本歴史地名大系 「真和志間切」の解説

真和志間切
まーじまぎり

首里城の北西から南にかかる一帯で、北方西原にしばる間切・浦添うらしー間切、東方は南風原ふえーばる間切、南方まん湖、西方久米村くにんだ・那覇町と海に面する。島尻方一四間切の一。正保国絵図には「真和志間切まわじまぎり」とある。正徳一三年(一五一八)六月九日、麻氏三世真福が兼城かなぐしく地頭職から「真和志間切儀間平良地頭職」に転任し、儀間平良親雲上となる(麻姓田名家家譜)。嘉靖二四年(一五四五)一一月六日、「はゑのこほりの一人あめくの大やくもい」(麻氏四世真孟)が「まわしまきり」の「きまのかなくすく」(儀間金城)の里主所を与えられ、天久あみく地頭職から儀間金城じーまかなぐしく地頭職に転任。同三〇年四月一三日、真孟は真和志間切儀間じーまの里主所を与えられ、儀間地頭職に転じている(「辞令書」田名家文書)

正保国絵図では真和志間切の高二千三六八石余。寛文八年(一六六八)の琉球国郷帳でも同高で、うち田方一千六三五石余・畠方七一一石余・桑役二一石余。琉球国高究帳では首里金城かなぐしく村・末吉しーし村・まび村(真嘉比村)安里あさとう村・識名しちな村・上磨ういーま(上間村)国場くくば村・古波蔵くふあんぐわ村・儀間村・儀間金城村・小禄うるく村、ぎすゝ村(宜寿次村)友寄とうむし(現東風平町)の一三ヵ村のほか、那覇町と同町に含まれる若狭わかさ町・久米村町・泉崎いずんざち町が記載され、合高および田方・畠方(桑役を含む)の内訳などは寛文八年の郷帳と同じ。絵図郷村帳では冒頭に首里・とうまいと並んで那覇町のみがあり、若狭町・久米村町・泉崎町の記載はなく、まきし村(牧志村)与儀ゆーじ村・中井間なけーま(仲井真村)今帰仁なちじん(のちに外間村。現東風平町)の四村を加えた一七村となっている。またかつてあった村として「あすミね村」「よなはたう村」の二村をあげる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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