俳諧発句合(はいかいほっくあわせ)。1冊。宗房(むねふさ)(芭蕉(ばしょう))判。1673年(寛文13)刊。三十番俳諧合。書名は、古くからある女子の遊戯「貝おほひ」の、あわせて勝負をみるところから由来。作者は伊賀上野(いがうえの)(三重県)の人々で、判者は芭蕉。上野の天満宮に菅公(かんこう)770年忌を期して奉納され、江戸で出版された。序に「小六(ころく)ついたる竹の杖(つゑ)、ふしぶし多き小歌にすがり、あるははやり言葉の……」とあるように、判詞は、当時遊里や巷間(こうかん)で流行した小唄(こうた)や、伊達者(だてもの)の六方詞(ろっぽうことば)などを自由奔放に用い、洒脱(しゃだつ)軽妙につくられている。芭蕉の句は「きてもみよ甚べが羽織花ごろも」「女(め)をと鹿(じか)や毛(け)に毛がそろふて毛むつかし」の2句。全体に遊蕩(ゆうとう)的な気分が横溢(おういつ)しており、青年期の芭蕉や社会風潮をうかがうに足るものがある。
[雲英末雄]
『杉浦正一郎著『芭蕉研究』(1958・岩波書店)』▽『井本農一・堀信夫校注『古典俳文学大系5 芭蕉集』(1970・集英社)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…1656年(明暦2)の季吟判《俳諧合》が版本として最も古いが,発生は寛永(1624‐44)ごろまでさかのぼりうるかもしれない。貞門の立圃(りゆうほ),季吟らに多く,有名な芭蕉の《貝おほひ》(1672成立)も季吟の影響下に成った。談林ではふるわなかったが,蕉門では俳風の転換点で《田舎句合》《常盤屋句合》《蛙合》《罌粟(けし)合》等々が成立しており,重要視されていたことがわかる。…
…談林の時代は大体,寛文年間(1661‐73)の台頭期,延宝年間(1673‐81)の最盛期,天和年間(1681‐84)の衰退期の3期に分けられる。
[台頭期]
貞徳の没後大坂・堺など地方俳壇の分派活動が目だち始め,俳書の刊行があいつぐなか,1671年には大坂の以仙(いせん)が《落花集》を編み,宗因の独吟千句を収めてこれに談林の教書的役割を果たさせ,翌72年には伊賀上野の一地方俳人宗房(そうぼう)(芭蕉)が,流行語や小唄の歌詞をふんだんに盛り込んだ句合(くあわせ)《貝おほひ》を制作。さらに翌73年には,世間から阿蘭陀流とののしられていた西鶴が,貞門の万句興行に対抗して,大坂生玉社頭に門人・知友を集め《生玉(いくたま)万句》を興行した。…
…
[閲歴]
10代末から俳諧に手をそめ,最初の入集は1664年(寛文4)。当時,藤堂藩伊賀付士大将家の嫡男藤堂蟬吟(せんぎん)(1642‐66)の連衆として季吟系の貞門俳諧に遊んだが,蟬吟の死で出仕の望みを失い,俳諧師を志し,72年宗房判の三十番句合《貝おほひ》を携えて江戸に下った。ただし,江戸に定住して活躍を始めたのは,74年(延宝2)に上京して北村季吟から《埋木(うもれぎ)》の伝授を受けた後と推定される。…
…奴俳諧は寛文期(1661‐73)を中心に流行,可徳編・定興判《ゑ入清十郎ついぜんやつこはいかい》(1667)をはじめ,立圃(りゆうほ),半井卜養(なからいぼくよう),ケ庵等の独吟歌仙が知られている。芭蕉の《貝おほひ》(1672)も奴ことばを多用する。【乾 裕幸】。…
※「貝おほひ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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