改訂新版 世界大百科事典 「談林俳諧」の意味・わかりやすい解説
談林俳諧 (だんりんはいかい)
江戸時代の俳諧流派,またその俳風。伝統的な貞門俳諧に反抗して起こり,1670年代(延宝期)を中心に流行,蕉風俳諧の台頭とともに急速に衰えた過渡期の俳諧である。貞門のなまぬるい俳風や堅苦しい作法に不満をもつ人びとが,連歌の余技として解放的・遊戯的な俳諧を楽しんでいた,大坂天満宮の連歌所宗匠西山宗因を盟主とし,一派を成したもので,宗因流,またその俳号から梅翁(ばいおう)流ともいう。談林とはもと僧侶の学寮をいい,初めに江戸の松意(しようい)一派がそれを名のったが,のちに宗因をいただく諸派の俳諧の総称となった。談林はまた,貞門が乗り越えるべく努めた《守武千句(もりたけせんく)》などの猥雑な俳風を復活させたために〈守武流〉,滑稽をこととする軽妙洒脱な詠み口から〈軽口(かるくち)〉,付合(つけあい)の連想飛躍を喜ぶところから〈飛躰(とびてい)〉,旧来の価値観を転倒させた異端性から〈阿蘭陀(オランダ)流〉とも呼ばれた。談林の時代は大体,寛文年間(1661-73)の台頭期,延宝年間(1673-81)の最盛期,天和年間(1681-84)の衰退期の3期に分けられる。
台頭期
貞徳の没後大坂・堺など地方俳壇の分派活動が目だち始め,俳書の刊行があいつぐなか,1671年には大坂の以仙(いせん)が《落花集》を編み,宗因の独吟千句を収めてこれに談林の教書的役割を果たさせ,翌72年には伊賀上野の一地方俳人宗房(そうぼう)(芭蕉)が,流行語や小唄の歌詞をふんだんに盛り込んだ句合(くあわせ)《貝おほひ》を制作。さらに翌73年には,世間から阿蘭陀流とののしられていた西鶴が,貞門の万句興行に対抗して,大坂生玉社頭に門人・知友を集め《生玉(いくたま)万句》を興行した。
最盛期
宗因の《蚊柱(かばしら)百句》(1674)をめぐり,論難書《しぶうちわ》,翌1675年惟中(いちゆう)の《しぶ団(うちわ)返答》が出され,新旧の対立がにわかに激化した。同年京都から高政(たかまさ)の《絵合(えあわせ)》,大坂から宗因加点の《大坂独吟集》,江戸から松意らの《談林十百韵(とつぴやくいん)》が出され,三都に浸透した談林の勢力をしのばせた。惟中が《俳諧蒙求(もうぎゆう)》を著し,老荘思想を背景に俳諧寓言(ぐうげん)説を展開して新興談林俳諧に理論的裏付けを与え,無心所着(むしんしよぢやく)の効用を力説したのもこの年である。77年には西鶴が1日に1600句を独吟し,矢数(やかず)俳諧の口火を切ったほか,宗因らの《宗因七百韻》,常矩(つねのり)の《蛇之助(じやのすけ)五百韻》,芭蕉らの《桃青(とうせい)三百韻》など,談林系の俳書が続々と刊行された。翌78年には幽山編《江戸八百韻》,不卜(ふぼく)編《江戸広小路》,信徳編《江戸三吟》など,書名に〈江戸〉を冠する俳書が多く出て,江戸談林俳壇の盛況を印象づけた。79年から80年にかけては,高政の《誹諧中庸姿(はいかいつねのすがた)》をきっかけに,《誹諧破邪顕正(はじやけんしよう)》《破邪顕正返答》など新旧両派合わせて15種類もの論戦書が交わされた。論争の渦中,西鶴は1日4000句の独吟(《大矢数》)を成就して俳壇の主導権を得ようとしたが,松意編《軒端の独活(うど)》や芭蕉判《俳諧合》など,流行に向かいつつあった漢詩文調についてゆけず,俳壇の第一線から脱落した。
衰退期
天和期に入ると漢詩文調はますます盛んになり,芭蕉らの《俳諧次韻(じいん)》《武蔵曲(むさしぶり)》《虚栗(みなしぐり)》などの新風が俳壇を圧倒して,軽口狂句を生命とする談林俳諧は衰退した。1682年の宗因の死,西鶴の《好色一代男》刊行は,談林の終息を象徴する出来事であった。
談林の盛期はわずか10年余にすぎなかったが,のちに芭蕉が〈上に宗因なくむば,我々がはいかい今以て貞徳が涎(よだれ)をねぶるべし。宗因は此道の中興開山也〉(《去来抄》)と評価したとおり,俳諧史上に果たした役割は大きい。とりわけ,宗因の〈虚を先とし実を後とす〉(《阿蘭陀丸二番船》)という俳諧理念が,文芸における虚構の表現を公認し,芭蕉の俳諧や西鶴の浮世草子を導いたことは,文芸史上画期的な業績である。〈花むしろ一見せばやと存じ候〉(《西山宗因千句》),〈大晦日定めなき世のさだめ哉〉(西鶴《三ケ津》)。
→蕉風俳諧 →貞門俳諧
執筆者:乾 裕幸
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報