日本の小編の歌謡。小哥などとも書かれるが,江戸初期までは〈小歌〉,現代の三味線音楽の種目名としては〈小唄〉が普通である。
主として室町時代の中期以後に,平安時代や鎌倉時代の催馬楽,今様,宴曲(早歌(そうが))などの歌謡に代わって,広く公家,武士,僧侶,庶民の各階層間に愛唱された自由律の比較的短小詩型の流行歌謡。小歌の名称は,古く981年(天元4)写の《琴歌譜》に,〈自余ノ小歌ハ十一月ノ節ニ同ジ〉とか,《江家次第(ごうけしだい)》1111年(天永2)11月中の丑日,五節帳台の試(こころみ)の条に,〈大哥小哥声ヲ発スルコト恒ノ如シ〉,《雲図抄・裏書》1122年(保安3),五節次第・丑日の条に,〈次イデ大歌歌笛ヲ発シ,小歌相和ス〉とあるように,平安時代の記録に見える〈小歌〉は,本来,新嘗祭または大嘗祭の陰暦11月,中の丑日に行われる〈五節舞(ごせちのまい)〉のとくに帳台の試の際,大歌(人)が発する歌笛の伴奏に対して,出歌(いだしうた)を唱和するところの小歌(女官)という職掌名を指したものである。言い換えれば小歌とは,もともと大歌(おおうた)という男性楽人に唱和すべき演奏者として,女楽を中心とする〈五節舞〉の帳台の試の儀にのみ登場する女流楽人のことで,またその女声合唱団によって演奏される歌曲の称呼でもある。したがって大歌,小歌を歌曲の種別として,大歌所で伝習される典雅な歌曲を大歌といい,民間に歌われる卑俗な民謡,流行歌の類を小歌と称したとする従来の説は,明らかに謬説として訂正せられるべきである。
この小歌がいかなる経路によって,後世の中世(室町)小歌のような短詩型の流行歌謡を意味するようになったかは明らかでないが,おそらく小歌女官の演唱する歌謡が,〈五節舞〉という女楽的な歌曲の性質上,曲節にもおのずから優婉味が加わり,歌詞にも世俗的な傾向を帯びた恋歌が選ばれ,やがてそれが内裏の女房たちの列する宴席歌謡などにも流用されるに及んで,いつしか〈小歌〉という名称が,中世小歌のような抒情的内容の歌曲類を意味するようになったと推測される。鎌倉時代の《弁内侍日記(べんのないしにつき)》(1252年(建長4)成立)には,こうした五節間の記事とともに,女房たちが宴席において五節の出歌のまねをして遊んだことなども記され,五節間に行われた短詩型の歌謡群が,やがて遊宴歌謡化して中世小歌の母体ともなったであろうことを明らかに推測せしめる。志田延義は平松家旧蔵の《異本梁塵秘抄口伝集》(1185年(文治1)以後成立か)の奥書や,《綾小路俊量卿記(あやのこうじとしかずきようき)》(1514年(永正11)成立)の〈五節間郢曲事(ごせちかんえいきよくのこと)〉に見られる〈鬢多々良(びんたたら)〉〈思之津(おもいのつ)〉〈物云舞(ものいうまい)〉〈伊左立奈牟(いざたちなん)〉〈白薄様(しろうすよう)〉など,五節豊明(ごせちとよのあかり)の節会の殿上淵酔(てんじようえんずい)に行われた諸歌謡の中に,中世小歌の律調上の源泉とすべきものを見いだし,わけても,
千世に万世(よろずよ) かさなるは 鶴のむれ
ゐる 亀岡(7・5・7・4)
に始まる13首の物云舞のごとく,各歌の末尾にある4音(小歌では5音に変化)が,中世歌謡に著しくなる一特色として,後来の小歌の律形式の一源泉であることを指摘した。中世初期の小歌は,おもに傀儡女(くぐつめ),遊女,白拍子(しらびようし)などの女性遊芸者群によって広められたが,また当時の公家や禅僧の日記類によれば,宮廷,貴紳の間に出入りした平家語りの座頭や連歌師,猿楽者,田楽法師,放下師などの専門芸能者によって〈舞〉と結合して謡われた小歌が,やがて宴席に列する女中衆の口唱にものぼったことがうかがわれる。
小歌を集成したものとして,1518年(永正15)成立の《閑吟集》や,それ以後,安土桃山期(1573-1600)にかけて編集された《宗安小歌集》《隆達節唱歌》などがあるが,他に《狂言小歌集》や断片的に諸書に散見する小歌資料も多く,これらは戦国時代の風流(ふりゆう)踊(小歌踊)歌を包含して,近世初期の女歌舞妓踊歌や三味線組歌に組織せられ,その余響はさらに箏歌(ことうた),御船歌(おふなうた),流行歌(はやりうた),民謡類にまで及んだ。
→狂言小歌
執筆者:浅野 建二
室町末期から近世初期にかけてもてはやされた隆達節は約500首が現存しており,その歌には七五七五の4句からなる今様調が多いが,七七七五という近世調も散見される。恋の歌が多く,扇拍子ないしは一節切(ひとよぎり)で歌われたという。隆達節を端緒として,寛永(1624-44)ころには京都で弄斎節(ろうさいぶし),江戸で片撥(かたばち),明暦・万治(1655-61)には京都島原で投節(なげぶし),江戸吉原でつき(ぎ)節,大坂新町で籬(まがき)節などが流行する。いずれも旋律は明らかではないが,小歌は色里から歌い出されたので,のちには〈色里流行歌(はやりうた)〉と総称されるようになる。なお《歌舞妓事始》(1762)には,小歌の作者や歌手の名前が記されているが,その小歌の曲名はこんにちの地歌や長唄をも含むから,小歌という概念は,物語性のある浄瑠璃と対立して用いられていたのかもしれない。
江戸時代に小歌曲の類が広まるもとは三都の廓か歌舞伎劇場であったが,歌舞伎狂言が流行歌を取り入れたり,逆に歌舞伎の芝居唄が廓ではやるといった関係にあった。これが意図的に行われるようになったのは江戸末期で,世話物の下座の〈付帳〉に〈端唄〉と記すようになった。この端唄とは種目名ではなく流行歌の総称で寄席唄,民謡なども含んでいる。清元は流行歌を自流に取り込むことにたけ,日ごろから端唄風の作曲を心がけていた。清元お葉は16歳で《散るはうき》(最初の小唄といわれる唄)を作曲している。河竹黙阿弥作の《小袖曾我薊色縫》のために作曲された清元《梅柳中宵月(うめやなぎなかもよいづき)》(《十六夜》)の中の端唄《忍ぶなら》は大好評を得たが,この小唄もお葉の作といわれている。小唄は気の合う者同士がお互いに作詞作曲して披露し悦に入るものであるから清元畑の人々の余技だったが,明治時代に入ると,これに5世尾上菊五郎らの俳優,伊藤博文らの高官,尾崎紅葉らの文人,3世杵屋(きねや)正次郎などの他流派の人々も加わって自作の小唄を披露し合う会が作られた。芸妓から転じた町の五目師匠(数種目の音楽のみならずときには踊りまで教えたので五目と呼ばれた)たちも時流を取り入れ,新橋おかね,小林きん,横山さきらが小唄を広めた。大正時代には,この五目師匠たちが認可を得て小唄の家元となった。堀派(初代家元堀小多満。曲節は古調),田村派(初代家元田村てる。曲節はやや軽快),蓼派(初代家元蓼胡蝶。曲節はやや荘重),春日派(初代家元春日とよ。曲節は軽快,進取を好む)などである。従来の小歌,小唄と区別して〈江戸小唄〉と呼ぶようになったのはこのころである。この他,歌舞伎を題材とした芝居小唄をはじめ300曲近くを作曲した吉田草紙庵も一派を成した。昭和初年からは小唄に合わせて踊る〈小唄振り〉も行われ始めた。小唄は第2次大戦後に大流行し,家元の数もふえ,100を超えている。清元お葉は〈小唄は三味線もので唄はつまだからうた沢とは正反対〉といっているが,三味線に凝った手を用い,唄をその合間にはめ込んでうたう。三味線と唄の旋律は離れることが多い。同好の人々に聞かせることが主眼であるから,〈殺した〉〈枯れた〉声で唄い,三味線も撥(ばち)を用いずに爪弾きとする。速度は〈早間(はやま)小唄〉といわれるように軽快。作詞に当たっては機知と諧謔に富んだ,通人を喜ばせる粋なものを良しとする。
執筆者:倉田 喜弘+柴田 耕頴
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平安時代後期の院政期から江戸時代初期、とくに室町時代に広く愛唱された歌謡。和歌や今様(いまよう)などの詞句からとったものも民謡風の詞句もみられるが、五音・七音を主とする短小の詩型で世俗的な恋愛詩とみるべきものが多く、優婉(ゆうえん)で繊細な独特の節回しを有する。能の「小歌」といわれる小段(現行曲で『花月(かげつ)』『藤永(藤栄)(とうえい)』『放下僧(ほうかぞう)』の3例)や、狂言でうたわれるヨワ吟の歌謡や、また民俗芸能の風流(ふりゅう)踊歌などに、詩型・旋律面のおもかげをくみ取ることができる。小歌を集成したものに、『閑吟集(かんぎんしゅう)』(1518成立)、『宗安(そうあん)小歌集』(16世紀初頭成立)、「隆達(りゅうたつ)の小歌」諸本などがあるが、小歌の語の初出は『琴歌譜(きんかふ)』(981伝写)とされ、もとは歌曲の呼称ではなく、陰暦11月宮廷における節会(せちえ)の五節帳台(ごせちちょうだい)の試みに際し、大歌人(おおうたびと)が発する歌曲に対して、出歌(いだしうた)を唱和した小歌女官(こうたにょかん)なる職掌の名によるものとされ、後代の小歌の女楽(おんながく)的な優しさもこれに起因するといわれる。その曲節は、直接には大和猿楽(やまとさるがく)が取り入れた「大和音曲(おんぎょく)」、「小歌節」によるものであることを、世阿弥(ぜあみ)関係の伝書から知りうる。『申楽談儀(さるがくだんぎ)』で「小歌節」のことを「女節」とも記しているのは、五節の謡物の特質を存していたからであろう。律調上の一源泉と目すべきものは、『綾小路俊量卿記(あやのこうじとしかずきょうき)』(群書類従)、『郢曲(えいきょく)』(京都大学図書館蔵)所収の一連の古謡からもうかがわれ、これらの小歌は、やがて、七・七・七・五調の近世小歌へと展開してゆく。
[徳江元正]
『新間進一・志田延義・浅野建二校注『日本古典文学大系44 中世近世歌謡集』(1959・岩波書店)』▽『志田延義著『日本歌謡圏史』(1958・至文堂)』▽『浅野建二著『日本歌謡の研究』(1961・東京堂出版)』
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短詩型の歌謡。時代により内容は異なり,定義にも諸説がある。平安時代には,宮廷女官の唱える五節舞(ごせちのまい)の出歌(いだしうた)など,男性楽人の大歌(おおうた)に対する女性歌曲の総称であったらしい。南北朝~安土桃山時代には,曲舞(くせまい),平曲(へいきょく)の座頭,早歌(そうが)うたい,放下師(ほうかし),田楽・猿楽法師などが伝承し,民衆から知識層の人々まで広く愛唱された諸種の歌謡の総称。江戸時代には弄斎節(ろうさいぶし)・投節(なげぶし)・古今節など民間の流行小編歌曲も含み,七五七五,七七七五など一定の詞型をもつ歌が多く,一節切(ひとよぎり)尺八・笛・鼓などで伴奏することもあった。今日では狂言の劇中歌や能の謡(うたい)の一部に,曲節のおもかげをしのぶことができる。
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…親鸞の《三帖和讃(さんじようわさん)》はその代表的な作である。こうした前期の長編歌謡に対して,中世後期は〈小歌(こうた)〉の時代として特色づけられる。小歌は今様と等しい位置の世俗歌謡で,七五調2句を主とする短詩型ながら,男女の愛情をうたうものなど独特の抒情性を示す。…
…なお,地歌の細分類名称として〈長歌(ながうた)〉という分類もあるが,歌舞伎音楽の〈ながうた〉とは直接の関係はない。歌舞伎における〈長歌〉という言葉の成立は,はっきりせず,古くは〈小歌〉〈鼓歌〉などに対するものでもあり,また〈江戸長歌(唄)〉〈大坂長歌(唄)〉〈京長歌(唄)〉などの区別もあり,かなり後代までこうした芝居小屋所在の地名を冠する習慣が行われたようであるが,明治以降は〈江戸長唄〉で代表させるようになり,それを〈長唄〉と略称することが一般的となった。【平野 健次】
[沿革]
お国歌舞伎時代(17世紀初期)の舞踊は能の四拍子(太鼓,大鼓,小鼓,笛)を伴奏楽器としていたが,お国歌舞伎を模倣した女歌舞伎(1629年禁止)の時代になると三味線が演奏されている。…
…以上はすべて武家社会の芸能である。 室町時代の中期には小歌(こうた)といわれる流行歌(はやりうた),後期には浄瑠璃という語り物が興った。それらは室町時代の末期に輸入された三味線と結びつくことによって,次の第5期で大いに発展することになる。…
※「小歌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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