赤崎浦(読み)あかさきうら

日本歴史地名大系 「赤崎浦」の解説

赤崎浦
あかさきうら

[現在地名]赤碕町赤碕

赤碕集落を中心とした海岸沿いに立地。三つの入江を有する。江戸時代にはおもに中央の入江を湊として使っており、この湊には藩蔵と船番所が置かれていた。現在はそれぞれの入江に西から西にし(西波止とも称する)きく港・赤碕港(旧称は亀崎港)があり、西港の西側の花見潟はなみがたには広大な墓地が広がる。

明の章漢の撰による万暦五年(一五七七)成立の「図書編」に「伯耆沿海白沙、無可泊、其鎮為阿家殺記」とあり、正保国絵図には「但当座ノ舟着」「荒時ハ舟カカリナシ」とみえる。元禄九年(一六九六)たけ(現鬱陵島)に渡った朝鮮国船三二艘のうちの一艘(一一人乗り)が「伯州へ訴訟の為」着岸しており、寛政元年(一七八九)に御船手米村六兵衛が湊普請のための見分に来ている(在方諸事控)。寛政年間岡田茂三郎の尽力によって松谷まつだに村の地にも湊(のちの亀崎港)が建設され、文化一五年(一八一八)には因伯以外の他国船も含め、三〇〇石積の船が停泊できる湊に増築したい旨の嘆願書を茂三郎らが出しており、文政二年(一八一九)には浦富うらどめ網代あじろ(現岩美町)庄屋などの承認や助力を得て増築の手はずを整えたが、藩が菊港の前身の改築工事に取りかかることにしたため実現されなかった(赤碕町郷土誌)

赤崎浦
あかさきうら

[現在地名]敦賀市赤崎

敦賀湾東岸のひがし浦一〇ヵ浦の一。北は江良えら浦、南は田結たい浦で、南部に枝村鞠山まるやま浦がある。文亀三年(一五〇三)九月一〇日付西福寺寺領目録(西福寺文書)に「赤崎」、永禄元年(一五五八)六月五日付の善妙寺領目録(善妙寺文書)に「赤崎浦」とみえる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図の赤崎浦高五六一石余は田結浦分を含む。正保郷帳では三一五石余、うち田方が二六〇石余。

享保一二年(一七二七)敦賀郷方覚書では「赤崎鞠山」と本村・枝村が連称され、庄屋も別立になり、村高・塩高なども分割されている。赤崎分の高二四七石余、庄屋五郎右衛門(持高二一石余)、塩高四七八俵余、馬足三疋、家数四九、うち高持四三・寺六、塩竈屋一五、牛一五、舟三、人数二六四。なお入木銀・牛馬銀・雉札銀などは両浦掛で、両浦は完全分離はしていない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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