日本歴史地名大系 「赤崎浦」の解説
赤崎浦
あかさきうら
赤碕集落を中心とした海岸沿いに立地。三つの入江を有する。江戸時代にはおもに中央の入江を湊として使っており、この湊には藩蔵と船番所が置かれていた。現在はそれぞれの入江に西から
明の章漢の撰による万暦五年(一五七七)成立の「図書編」に「伯耆沿海白沙、無可泊、其鎮為阿家殺記」とあり、正保国絵図には「但当座ノ舟着」「荒時ハ舟カカリナシ」とみえる。元禄九年(一六九六)
赤崎浦
あかさきうら
- 福井県:敦賀市
- 赤崎浦
敦賀湾東岸の
享保一二年(一七二七)の敦賀郷方覚書では「赤崎鞠山」と本村・枝村が連称され、庄屋も別立になり、村高・塩高なども分割されている。赤崎分の高二四七石余、庄屋五郎右衛門(持高二一石余)、塩高四七八俵余、馬足三疋、家数四九、うち高持四三・寺六、塩竈屋一五、牛一五、舟三、人数二六四。なお入木銀・牛馬銀・雉札銀などは両浦掛で、両浦は完全分離はしていない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報