日本歴史地名大系 「赤平村」の解説
赤平村
あかびらむら
大正一一年(一九二二)から昭和一八年(一九四三)まで存続した空知郡の村で、空知川下流両岸に広がる。「丁巳日誌」(再石狩日誌)にみえる「ハツキシユバヲマナイ」「ハンゲゲフシナイ」「ヘンゲケフシナイ」「モシリケシヲマナイ」は当地に比定され、石炭があることを記す。
赤平村
あかひらむら
慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に「赤尾津郷 赤平村」とある。寛永二年(一六二五)の村高は二七〇石余であったが、正保三年(一六四六)には三五六石と大きく増えている(「出羽国油利郡内高目録」秋田県庁蔵)。
宝永七年(一七一〇)には家数一五軒(「御巡見様御案内ニ付留書覚印牒」大内町文化財資料)、明治初年には五四戸、うち士族一七戸、平民三七戸に増え、人口も二八四人となる(羽後国由利郡村誌)。
赤平村
あかひらむら
正保四年(一六四七)には三二五石(出羽一国絵図)、天和四年高三九一石(「御黒印高帳河辺郡村々」河辺町郷土誌)、享保一四年高二三〇石(「河辺郡御黒印高帳」河辺町郷土誌)、文化一二年(一八一五)高二〇〇石(秋田風土記)、天保郷帳には高三八三石余と、高の増減がはげしい。
赤平村
あかふいらむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報