赤松 常子
アカマツ ツネコ
- 肩書
- 参院議員(社会党),総同盟婦人部長
- 生年月日
- 明治30年8月11日
- 出生地
- 山口県徳山市
- 学歴
- 京都専門学校(現・京都女子大学)中退
- 経歴
- 大阪の煙草専売局、製紙工場の工員として働き、兄克麿の属する総同盟鉄工組合に加入、大正14年総同盟婦人部に加盟。昭和9年総同盟婦人部長となり、繊維産業に働く婦人の地位向上に尽力、「紡績女工の母」と慕われた。戦後20年日本社会党の結成に参加、婦人部長。22年参院全国区議員に当選、23年芦田均内閣厚生政務次官、25年参院社会労働委員長、全繊同盟副会長も務め、28年右派社会党、34年統一社会党から参院全国区に当選。35年民主社会党の結党に参加した。
- 没年月日
- 昭和40年7月21日
- 家族
- 兄=赤松 克麿(政治家) 赤松 智城(宗教学者) 祖父=赤松 連城(僧侶)
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
赤松 常子
アカマツ ツネコ
大正・昭和期の労働運動家,政治家 参院議員(社会党);総同盟婦人部長。
- 生年
- 明治30(1897)年8月11日
- 没年
- 昭和40(1965)年7月21日
- 出生地
- 山口県徳山市
- 学歴〔年〕
- 京都専門学校(現・京都女子大学)中退
- 経歴
- 大阪の煙草専売局、製紙工場の工員として働き、兄克麿の属する総同盟鉄工組合に加入、大正14年総同盟婦人部に加盟。昭和9年総同盟婦人部長となり、繊維産業に働く婦人の地位向上に尽力、「紡績女工の母」と慕われた。戦後20年日本社会党の結成に参加、婦人部長。22年参院全国区議員に当選、23年芦田均内閣厚生政務次官、25年参院社会労働委員長、全繊同盟副会長も務め、28年右派社会党、34年統一社会党から参院全国区に当選。35年民主社会党の結党に参加した。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
赤松常子 あかまつ-つねこ
1897-1965 大正-昭和時代の労働運動家,政治家。
明治30年8月11日生まれ。赤松智城(ちじょう),赤松克麿(かつまろ)の妹。京都女子専門学校(現京都女子大)を中退後,大正14年日本労働総同盟にはいり,婦人部長となり,繊維産業などの争議を指導。戦後社会党婦人部長。昭和22年参議院議員(当選3回)。のち民社党結成に参加。昭和40年7月21日死去。67歳。山口県出身。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
赤松 常子 (あかまつ つねこ)
生年月日:1897年8月11日
大正時代;昭和時代の労働運動家;政治家。参議院議員
1965年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の赤松常子の言及
【赤松克麿】より
…新人会出身の社会運動家。山口県に生まれる。[赤松連城]の孫。東大法学部卒業。在学中吉野作造の影響を受け人道主義の立場から民本主義に近づき,石渡春雄,宮崎竜介らと新人会を組織。卒業後,総同盟の運動に参加し,1922年には日本共産党に入党。まもなく離党し24年の総同盟大会で改良主義的宣言を起草。この間,吉野の次女明子と結婚。26年社会民衆党結成に参加し,30年書記長となった。31年大川周明らと日本社会主義研究所を創設。…
※「赤松常子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」