赤見村(読み)あかみむら

日本歴史地名大系 「赤見村」の解説

赤見村
あかみむら

[現在地名]佐野市赤見町

大小だいしよう山の北東麓に位置し、西・南は足利郡と境をなす。東は小中こなか村・石塚いしづか村。東をはた川が、中央部を出流いずる川が南流し、東部なか山・ひがし山といった丘陵がある。「万葉集」巻一四に「赤見山草根刈り除け合はすがへ争ふ妹しあやにかなしも」の歌があり、「赤見山」を東山に比定する説がある(佐野市史)。国分寺跡(現下都賀郡国分寺町)から「赤見」と篦書した古瓦が出土している。

乾元二年(一三〇三)閏四月一二日の足利貞氏下文案(倉持文書)に足利庄内「赤見駒庭郷」とみえ、倉持師経は当郷半分と数ヵ所の所領を安堵されている。これらの所領は師経の祖母の一期知行と記されており、当地は一三世紀末頃に倉持氏の所領となっていたと考えられる。応永五年(一三九八)三月日の俊誉申状案(相承院文書)によれば、かつて足利貞氏が当郷内の一所を鎌倉の聖天堂に寄進したが、この頃は室町幕府の支配下にあって年貢も減少し、支配は有名無実となっていた。しかし永享五年(一四三三)四月五日には当郷内の田畠が足利貞氏の下文・手継証文などとともに珍誉から弘俊に譲与されており(「珍誉譲状」同文書)、実質的には鎌倉鶴岡八幡宮の相承院領であった。


赤見村
あかみむら

[現在地名]城南町赤見

北に緑川南西浜戸はまど川が流れる肥沃な水田平野の一角を占め、東はたか村、南は島田しまだ村・西木さいぎ村、北から西にかけて釈迦堂しやかどう村・大町おおまち(現富合町)に接する。京坪きようのつぼ三十六さんじゆうろくのような条里を思わせる字名(郡村誌)がある。南北朝内乱期の恵良惟澄注進闕所中指合所領注文写(阿蘇家文書)に「赤見村隈庄内歟、何庄内村哉、非闕所歟」とある。断定はできないが、当時隈牟田くまむた庄に属し、隣の守富もりどみ庄との西の境界であった。当村にかつて所在した金福こんぷく(現上益城郡矢部町)東林とうりん寺、あるいは日吉ひえ山王社の存在もこれを裏付けるものであろう。これら寺院跡付近からは須恵器土師器・瓦器のほか南宋青磁・白磁片、高麗の青磁片が出土し、五輪塔・板碑・石造宝塔なども残存する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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