日本歴史地名大系 「足尾銅山跡」の解説
足尾銅山跡
あしおどうざんあと
足尾町のほぼ中央に位置する
〔近世〕
慶長一五年(一六一〇)三月、播磨国山崎次兵衛と備前国の高坂清右衛門が発見したとされる。当地の百姓治部と内蔵が見付けたのを二人が知り、大金を仕入れて発掘したともいわれる。翌一六年老中酒井忠世を通じて間吹銅(試験的精銅)を幕府に献上したところ、幕府の御用銅山とされ、同一八年銅山奉行藤川庄次郎、山頭山崎・高坂のもと銅の買上げが始められた。なお慶長以前から発掘されていたとの説もあるが検討を要する。その後一時留山となったり、江戸や京都の商人が稼行を請負ったこともあったが、多くは銅山奉行の管轄下に置かれ、慶安元年(一六四八)から公儀御台所銅山として江戸の下野代官が銅山奉行を兼ね手代が銅山へ出役した。坑口は当初備前楯山の南面、
掘出・吹立(精銅)稼を行う山仕(銅山師)はもと三六人であったが、延宝年間から四六人に増加。しかし寛政年間(一七八九―一八〇一)には三三人に減少した。また最盛期には吹床五〇枚ほどであったが、寛政八年には吹床二枚に激減しており「皆休山」という状態となった(以上、元文元年「足尾山仕共指出」・寛政八年「足尾銅山草創記」輪王寺文書など)。精銅に必要な炭は、山仕に山を割当て木を伐らせた。文化一四年(一八一七)には日光山の御手山になっている(日光山森羅録)。なお銀や鉛も発見され、間掘の努力が払われた。足尾銀山記(輪王寺文書)によると、明和二年(一七六五)から同四年にかけて
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報