足尾銅山跡(読み)あしおどうざんあと

日本歴史地名大系 「足尾銅山跡」の解説

足尾銅山跡
あしおどうざんあと

足尾町のほぼ中央に位置する備前楯びぜんだて(一二七二・四メートル)を中心に発展した日本屈指の銅山。

〔近世〕

慶長一五年(一六一〇)三月、播磨国山崎次兵衛と備前国の高坂清右衛門が発見したとされる。当地の百姓治部と内蔵が見付けたのを二人が知り、大金を仕入れて発掘したともいわれる。翌一六年老中酒井忠世を通じて間吹銅(試験的精銅)を幕府に献上したところ、幕府の御用銅山とされ、同一八年銅山奉行藤川庄次郎、山頭山崎・高坂のもと銅の買上げが始められた。なお慶長以前から発掘されていたとの説もあるが検討を要する。その後一時留山となったり、江戸や京都の商人が稼行を請負ったこともあったが、多くは銅山奉行の管轄下に置かれ、慶安元年(一六四八)から公儀御台所銅山として江戸の下野代官が銅山奉行を兼ね手代が銅山へ出役した。坑口は当初備前楯山の南面、しぶ川奥の谷にあった。産銅は丁銅に製錬され、江戸の浅草御蔵へ納め、江戸城の銅瓦、上野寛永寺、日光の諸堂舎などの修築、その他幕府の用銅に充てられた。寛文八年(一六六八)に代官岡上次郎兵衛が銅山奉行を兼ね、貞享四年(一六八七)まで勤めたが、この頃当銅山は最盛期を迎え、同元年には一年間に丁銅で三四、五万貫(一三〇〇―一五〇〇トン台)を産出した。増産に伴い長崎からの輸出が企図され、江戸・大坂のほか長崎にも会所が設けられて、延宝四年(一六七六)より「五ケ一御用」として、長崎で輸出総銅高の五分の一を直売することになった。しかし元禄(一六八八―一七〇四)に入る頃から産銅高が減じ、元禄一三年頃に五ヶ一銅も中止された。寛保二年(一七四二)から延享二年(一七四五)まで山元救済のため鋳銭座が設けられ、裏面に「足」の字を刻んだ寛永通宝の足字銭一五万七千八四五貫が鋳造されている。

掘出・吹立(精銅)稼を行う山仕(銅山師)はもと三六人であったが、延宝年間から四六人に増加。しかし寛政年間(一七八九―一八〇一)には三三人に減少した。また最盛期には吹床五〇枚ほどであったが、寛政八年には吹床二枚に激減しており「皆休山」という状態となった(以上、元文元年「足尾山仕共指出」・寛政八年「足尾銅山草創記」輪王寺文書など)。精銅に必要な炭は、山仕に山を割当て木を伐らせた。文化一四年(一八一七)には日光山の御手山になっている(日光山森羅録)。なお銀や鉛も発見され、間掘の努力が払われた。足尾銀山記(輪王寺文書)によると、明和二年(一七六五)から同四年にかけて河内かわち上三川かみのかわ村の釜屋久右衛門と和泉屋清右衛門によって銀山平ぎんざんだいらで銀・鉛の試掘が行われたが失敗に終わっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「足尾銅山跡」の解説

あしおどうざんあと【足尾銅山跡】


栃木県日光市足尾町にある鉱山跡。指定名称は「足尾銅山跡 通洞坑(つうどうこう) 宇都野火薬庫跡(うつのかやくこあと)」。採鉱・選鉱・製錬の一連の工程を示す施設のほか、生活・経営その他に関わる施設・遺構からなる。銅山の本格的な稼働は1610年(慶長15)からで、1648年(慶安1)からは幕府の御用銅山となった。のちに民間に払い下げられ、1877年(明治10)に古河市兵衛が買収して経営に着手。その後、本山坑を整備し、小滝坑、通洞坑を開口して銅山経営の基礎が固められ、19世紀終わりには国内生産の4割に達する大鉱山に成長した。一方、1890年(明治23)に渡良瀬(わたらせ)川の大洪水により下流域の農作物に被害を与えたことが契機となって鉱害問題が顕在化し、1896年(明治29)には鉱毒予防工事命令が出され、浄水場などが建設された。1988年(昭和63)には輸入鉱石による製錬も事実上操業を停止し、銅生産の歴史は幕を閉じたが、わが国の近代産業の発展および鉱害とその対策についての歴史を知るうえで重要である。中心的な坑道である通洞坑と、銅産出のための火薬を貯蔵する宇都野火薬庫跡が、2008年(平成20)に国の史跡に指定された。わたらせ渓谷鐵道通洞駅から徒歩約5分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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