フィリピン(英語表記)Philippines

共同通信ニュース用語解説 「フィリピン」の解説

フィリピン

面積は日本の約8割。人口約1億1千万人で、大半がキリスト教徒。若年層の人口比率が高く、18~41歳の有権者が56%を占める。海外の出稼ぎ労働者からの送金が経済を支えてきた。2010年代は東南アジアでも高い経済成長率を誇った。南シナ海での主権を巡って中国と対立、米国と軍事演習を続けている。太平洋戦争で日本が侵攻。終戦までに日本の兵士と民間人計約51万8千人、フィリピン人約110万人が死亡したとされる。(マニラ共同)

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改訂新版 世界大百科事典 「フィリピン」の意味・わかりやすい解説

フィリピン
Philippines

基本情報
正式名称フィリピン共和国Republic of the Philippines 
面積=30万km2 
人口(2010)=9401万人 
首都=マニラManila(日本との時差=-1時間) 
主要言語=ピリピーノ,英語,各地方語 
通貨=フィリピン・ペソPhilippine Peso

アジア大陸の南東方,台湾とボルネオ,スラウェシ島の間の西太平洋上にある島嶼国家。国土は大小合わせて7100といわれる島々からなるが,うち3km2以上の島は500にも満たず,大多数は無名の小島,サンゴ礁島にすぎない。主要な島はルソン,ミンダナオの2大島,ビサヤ諸島の7島(サマール,レイテ,マスバテ,ボホール,セブ,ネグロス,パナイ),それにミンドロ,パラワンの計11島で,これだけで全国土面積の92.5%に達し,その人口は全人口の96%を占める。

フィリピン群島は基本的に第三紀,第四紀の褶曲運動と火山運動により形成されたと考えられるが,その骨格形成には,ルソン島のカラバリョ山脈南西の急崖から東岸のディンガラン湾に抜け,ポリリョ海峡,ラモン湾,ラガイ湾,マスバテ島北東部を経てミンダナオ島のアグサン渓谷に達するフィリピン断層線が大きな作用を及ぼした。なお,構造線としては北北西~南南東と北北東~南南西の2方向が認められる。ミンダナオ島中央高地南部には群島最高峰の活火山アポ山(2954m)がそびえ,ルソン島南部からビコル半島にかけての火山地帯には二重カルデラで有名なタール湖,世界的なコニーデで知られるマヨン山(2417m)がある。またルソン島のカガヤン谷,中部ルソン平野,ミンダナオ島のコタバト平野,ブキドノン台地,パナイ島のイロイロ平野,ネグロス島西海岸平野などが重要な農業地帯を形成する。

 気候的には熱帯モンスーン区に属し,多くの地域で乾季と雨季の明瞭な交替が認められる。もっとも降雨期を支配するのは地形,特に山脈との位置関係で,その東側では北東モンスーンの影響を受けて12月から翌年2月に多雨期が現れるのに対し,西側では南西モンスーンにより6~11月に降雨を見る。前者が群島東岸を代表する気候であり,後者が西岸型である。このほか,山脈や島にはさまれた地域に寡雨地帯が現れ(カガヤン谷,中部ビサヤなど),南部フィリピンの低緯度地帯では年中平均した降水をもつ赤道モンスーン型の気候となる(ミンダナオ島南部)。群島を襲う台風は年平均19個といわれるが,この影響を受けるのはビサヤ諸島以北で,特に東岸部で毎年大きな被害をみる。

フィリピンの住民構成はきわめて複雑にみえるが,人種的には南方モンゴロイドといわれる新マレー系人種を中心に,少数民族としてコーカソイドとモンゴロイド両方の形質をもつ旧マレー系人種,ネグリト,それに中国人,ヨーロッパ人が混じっているにすぎない。分離独立を叫んで今日激しく中央政府と対立しているフィリピン人イスラム教徒のモロ族にしても,人種的にはタガログ,セブアーノと同じ新マレー系である。民族構成を複雑にしているのは,人種ではなく宗教であり言語である。

 フィリピン住民の実に93%がキリスト教を信じる。これはスペインの遺産であって,各町に教会が置かれ,人々はここで毎週日曜日にミサをあげ,洗礼,婚礼などの人生の主要儀礼を行う。しかし,同じキリスト教徒でもそこにはローマ・カトリック(85%),プロテスタント(3%),フィリピン独立教会(4%),イグレシア・ニ・クリスト(キリストの教会,1%)などの派がみられ,別々の教会で別々の儀礼を執り行う。残る7%の人口のうち4~5%がイスラム教徒で,南部を中心に約250万人を数える。彼らはマラッカ王国最盛期に教化され,16世紀後半以降フィリピンを植民地化したスペインに対し,頑強にその支配を拒んだ唯一のフィリピン人であった。このほかの2%はそれぞれ土着の宗教を信仰する人たちである。

 フィリピン諸語は,言語学的にはいずれもアウストロネシア(マラヨ・ポリネシア)語族に属し,マレー語,ジャワ語などとも多くの共通点をもつ。とはいえ,フィリピン人はこれらフィリピン諸語を相互に全然理解できず,一方が他方の言語修得に最低半年を要するほどである。その数は134種とも186種ともいわれるが,主要なものだけでもタガログ(1995年センサスによると全人口の29.3%が母語とする),セブアーノ(21.2%),イロカノ(9.3%)など8種類を数える。このように多種の言語の存在は,住民自らの力による民族統一の歴史を欠いたことによることはいうまでもない。1939年タガログ語を国語の基礎にすることが制定されたが,英語がそのまま公用語,授業用語として残ったために国語の普及は大いに遅れ(1959年に国語はピリピーノPilipinoと命名された),70年の普及率はようやく55%にすぎなかった。70年代に入ってからのナショナリズム高揚もあって,最近では普及がかなり進んだとみられる。
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フィリピンの宗教別人口比は[住民]の項で述べられたとおりであるが,それを大別すると,キリスト教系の宗教,イスラム,その他に三分される。外来の世界宗教が到来する以前のフィリピン住民の宗教は,精霊信仰(アニミズム)であった。今日でも山岳地帯に住む少数民族は精霊信仰をもっている。世界宗教の中で最初に伝来したのはイスラムで,14世紀後半ころから南部を中心に広まり,現在ではスールー諸島,ミンダナオ島西・南部の平野部および海岸地帯,パラワン島南部の海岸地帯に広まっている。カトリシズムは16世紀後半にスペインの植民地支配とともにもたらされ,全人口の8割以上を占める宗教となった。フィリピン独立教会は,フィリピン革命期に,カトリック教会の人種差別に抵抗して生まれた民族教会で,1902年に正式に発足した。信徒は北イロコス州を中心に全国に散在している。プロテスタンティズムは,アメリカの植民地支配とともに到来した。アメリカ文化はフィリピン社会にきわめて大きな影響を及ぼしたが,プロテスタンティズムはそれほど浸透しなかった。アメリカ体制期に入って,宗教の自由が認められるようになって以降,さまざまな新宗教が登場した。その中で最大のものが,イグレシア・ニ・クリストである。フィリピンを訪れると,全国いたるところの町々で,高い尖塔をもつ白亜のものものしい教会に出会う。これがイグレシア・ニ・クリストの教会である。この他に注目される新宗教は,一般にリサリスタRizalistaと総称される諸宗教組織である。リサリスタの特徴は,民族英雄リサールがやがて救世主として人々を救いに来てくれるという信仰にある。

 フィリピンの宗教は多様であるが,おおかたのフィリピン人の社会生活は,カトリック教会の教会暦を中心に展開されている。とくにたいせつな年中行事は,クリスマスと四旬節の諸行事,それに各町の守護聖人を祝うフィエスタ,そして万聖節,万霊節である。これらの年中行事には,家族や親戚が一堂に会して相互の連帯を深め合う。現在フィリピンの民衆が実行しているカトリシズムは,かつての精霊信仰時代の儀礼や信仰を多く包摂していて,公式のカトリシズムからは相当に逸脱している。そのような意味で,フィリピン民衆のカトリシズムはフォーク(民俗的)・カトリシズムと呼ぶことができるが,こうした現象は,南部の人々が信仰しているイスラムについても,同様に指摘することができる。

 フィリピン社会で最もたいせつな社会的紐帯は家族血縁関係である。あらゆる社会的関係は家族血縁関係を中心にして組織され,拡大強化されるといっても過言ではない。家族の形態は夫婦と子どもからなる核家族が一般で,親族関係は双系制を基本とする。しかし,現実に機能している家族や親族の観念は,擬制的親族関係や姻族が加わって,もっと複雑で柔軟な広がりをもっている。擬制的血縁関係として代表的なものは,儀礼兄弟制度とコンパドラスゴ(儀礼的親子関係)である。フィリピン企業の多くが親族会社の形態をとり,社会のあらゆる場で縁者びいき(ネポティズム)が盛んなのも,こうした家族血縁関係を反映している。

 フィリピンでは教育の価値が広く認められていて,教育制度も進んでいる。現在の学制は初等教育6年(初等科4年と中間課程2年),中等教育4年,大学4年となっていて,最初の6年間が義務教育である。初等・中等教育の生徒登録率は9割に近い。しかし,学校教育における最大の問題は言葉である。小学校1,2学年のときは地方語で教育を受け,同時に国語ピリピーノを習いはじめる。そして3学年以上になると英語とピリピーノが教育用語になり,上級になるに従って英語の占める比重が大きくなる。中等教育機関および大学ではほとんど英語で授業が行われている。教育を大衆化し,質的に向上させるためには,教育用語問題の解決が最大の課題である。

フィリピンの歴史が,文献史料に基づいて本格的に明らかになるのは,16世紀後半,この地域がスペインの植民地支配下に置かれて以後のことである。それ以前の時代については,中国の史書に断片的な記録が残されているだけで詳しいことはわからない。中国の記録で最も古いものは,13世紀初めに書かれた趙汝适(ちようじよかつ)の《諸蕃志》で,同書にはフィリピン群島に比定される麻逸国,三嶼,蒲哩嚕の産物と風俗が記されている。しかし,これらの地名がフィリピン群島のどこに当たるかは,いまだに確定していない。

 元代末の14世紀半ばに著された,汪大淵の《島夷誌略》には,あらたに麻里嚕(マニラ),蘇禄(スールー)などの地名が登場する。フィリピン群島で最初に統一的な政治支配が成立したのは,この蘇禄,すなわち,スールー諸島の中心地,ホロ島においてであった。ホロ島では15世紀の中ごろに,スルタンのアブー・バクルが支配するスールー王国が成立した。《明史》によれば,スールー王国は中国の明朝と一時期頻繁に交流した。しかしホロ島以外の地域では統一的な政治支配はみられず,住民はバランガイと呼ばれる小規模な集団を形成して生活していた。バランガイの規模は通常30から100程度の単位家族から成っていたが,交通の要衝,例えばルソン島のマニラ湾沿岸やリンガエン湾沿岸,カガヤン河口付近などには,2000人以上,ときには1万人近い大規模なバランガイもみられた。

1565年よりフィリピン侵略を開始したスペインは,71年にマニラをフィリピン支配の主都と定め,以後10年ほどの間に,ルソン島ならびにビサヤ諸島の平地部をその支配下に置いた。そして17世紀前半までに,州(アルカルディーア),町(プエブロ),村(バリオまたはバランガイ)の3段階から成る地方行政制度を設立した。植民地行政の中でスペイン人が担当したのは,マニラの中央政庁と州政府までで,それ以下の地方行政はフィリピン人の手にゆだねられた。これらの町村レベルの原住民役人を総称してプリンシパリーアと呼び,かつてのバランガイ社会の首長層がその任に当てられた。スペインは政教一致の支配体制をとったので,植民地の住民はすべてカトリックへの改宗を強制された。行政単位の町は,教会組織の小教区と完全に重なっていて,町役場と教会と広場が,町の中心部を形成するシンボルであった。教区司祭は通常,スペイン人修道会士が任命されたので,彼は町以下の地方社会に存在する唯一のスペイン人として,住民の精神生活のみならず,統治行政面でも絶大な権限をふるった。

 スペイン統治下で住民の経済生活は長らく停滞的であった。スペイン政庁は住民に人頭税(トリブート),強制労働(ポーロ)などを課して,生産の余剰を収奪する一方,移動の自由や融資活動などに制限を加えて,住民の交易活動を抑圧した。城壁都市マニラに集住したスペイン人の消費生活を支えたのは,パリアンなどに住む中国系の商人と職人であった。中国系商人はマニラとメキシコのアカプルコを結ぶガレオン船貿易の集貨業務をも一手に引き受けて,フィリピン経営のなくてはならぬ存在となった。

 スペインはルソン島とビサヤ諸島の平地部を征服したのち,未征服の山地部と南部の征服を企てた。しかし,両地域はスペイン体制の末期まで,ついにスペインの進出を許さなかった。とくに南部のイスラム地域では,ホロ島をはじめとして,ミンダナオ島のコタバト地方やラナオ地方などにモロ族による強力なスルタン国家が成立していたので,スペイン政庁はこれらイスラム地域と3世紀近くにわたって,〈モロ戦争〉と呼ばれる熾烈な戦いを繰り返した。

 18世紀後半に入って,スペイン政庁はフィリピンの経済開発を模索するようになった。1782年に開始されたタバコの強制栽培制度,85年の王立フィリピン会社の設立はその一環であった。しかし,住民経済を自給自足経済から商品作物農業へと一大転換させたのは,1834年のマニラ開港に伴う外国貿易であった。これ以後フィリピンの外国貿易は,イギリスとアメリカを主要な相手国として発展した。両国から輸入される綿織物や機械製品に対して,フィリピンからは砂糖,マニラ麻,タバコなどの一次産品が輸出された。これらの輸出用商品作物が特定の地域で特化されるに伴って,米,トウモロコシなど,その他の農産物の商品化も進展し,フィリピン群島の広範な地域に商品農業が導入された。外国貿易を契機として,国内の流通経済も盛んになった。この分野を担ったのは,中国系メスティソ(混血)であった。生産現場の農村では,商品経済の進展に伴って高利貸が横行し,担保流れで土地を失う農民が増える一方,高利貸や仲買商人らによる土地集積が進行した。1830年代以降はフロンティアの開発も盛んで,カガヤン谷,中部ルソンの辺境地帯,タヤバスやバタンガスの低地帯,ビサヤ諸島のネグロス島,パナイ島北・中部,セブ島などが,イロカノ族,タガログ族,セブアーノ族らによって開拓された。こうした一連の経済発展の中から,地主,仲買商人などの新興の有産階級が誕生し,植民地支配に批判を抱くようになった。

植民地支配に対する抵抗運動は,スペイン進出の当初から数多く展開された。しかし,それらの抵抗運動の中で,人種差別の不当性を初めて明確に主張したのは,1840年代末に始まるフィリピン人神父の権利擁護運動であった。この運動は72年のゴンブルサ事件で大弾圧をうけて潰滅したが,この事件の衝撃で目ざめた民族意識は,やがて1880年代にプロパガンダ運動と呼ばれる改革運動を生み出した。プロパガンダ運動の担い手は,マニラの中等教育機関(コレヒオや師範学校など)やサント・トマス大学,さらには遠くヨーロッパ諸国へ遊学ないしは留学した,新興有産階級の子弟であった。彼らは自国の主都マニラとスペインの首都マドリードとを主要舞台にして,フィリピン支配の改革を求める言論活動を展開した。この運動の中で,リサールやデル・ピラールらの著名な知識人が輩出し,機関紙《ソリダリダッド》が発行された。プロパガンダ運動はフィリピン社会に,初めて全民族を統一する民族思想を創り出し,植民地支配を一つの体制悪として総合的に批判する理論をつくり出したが,現実の改革要求については何一つ実現することができなかった。

 96年8月,ルソン島のタガログ8州を主要舞台にして,フィリピン革命が開始された。革命を主導したのは,秘密結社カティプーナンであった。しかし,革命開始後まもなくして,革命軍内部には,地域主義と階級の違いを主要因とする,深刻な指導権争いが生じ,革命のリーダーシップはカティプーナン総裁ボニファシオの手からカビテ州プリンシパリーア階層の先頭に立つアギナルドの手に移った。アギナルド指導部は97年12月スペインと和約を結んで,革命終息をはかり,彼らは香港へ亡命した。しかし,革命戦線はむしろこの頃から全国的に拡大しはじめた。折しも,98年4月,革命軍支援の名目でアメリカが事態に介入し,亡命中のアギナルドを帰国させて,再度革命政府を樹立させた。しかし,アメリカの真意がフィリピン占領にあることを知った革命軍は,独力でフィリピン全土の解放を目ざした。

 98年6月,革命政府はM.ポンセ,F.リチャウコの2人を日本へ派遣して,武器,弾薬の調達と日本の支援獲得に当たらせた。日本の軍部は当初より,フィリピン革命へ介入する機会をうかがっていたが,日本政府はアメリカのフィリピン介入に対して局外中立の立場を表明していたので,日本軍部から武器を購入しようとするポンセらの交渉は難航した。しかし,ポンセはその後,日本滞在中の孫文の紹介で宮崎滔天,犬養毅らの知遇を受け,これら日本人アジア主義者の協力で,陸軍参謀本部から中古の村田銃などの払下げを受けた。この間にアメリカは,98年12月,スペインとの間にパリ条約を結んで,フィリピンの領有権を獲得した。他方,革命政府は99年1月,マロロス憲法を発布してマロロス共和国(第1次フィリピン共和国)を樹立した。その結果,99年2月,革命軍とアメリカ軍との間で,フィリピン・アメリカ戦争が勃発するにいたった。日本陸軍から払い下げられた武器・弾薬は99年7月,布引丸に積載されて長崎港を出航したが,途中,上海沖で台風に遭って沈没し,鶴首待望する革命軍の手には届かなかった(布引丸事件)。日本陸軍はまた,武器払下げと交換に,日本軍人を革命軍に招聘するよう要請し,原禎中佐以下5人の軍籍を離脱した〈軍人〉と民間人平山周が別途フィリピンへ渡った。しかし,彼らも意思の疎通をはかれなかったことなどから,なすところなく,短期間でフィリピンを引き揚げた。軍備に劣る革命軍は執拗なゲリラ戦を展開したが,アメリカの近代兵器の前に敗北した。

アメリカは1902年より本格的なフィリピン統治を開始した。軍事力に勝るアメリカは,スペインが征服することのできなかった山地部やイスラム地域にも侵略の歩を進めた。しかし,イスラム地域の抵抗は依然強力で,15年のカーペンター=キラム協定まで戦闘が続いた。そして,この時点で初めて,フィリピン全土が一つの政府の下に置かれることになった。アメリカは,侵略戦争のさなかからすでに教育を植民地支配の柱に据えて,全国津々浦々に小学校を建設した。そして,小学校から大学まで,アメリカのカリキュラムに従って英語で授業が行われた。アメリカの統治は,当初,フィリピン委員会が立法府と行政府を兼ねるかたちで始まったが,07年に一院制のフィリピン議会が開設され,さらに16年にはジョーンズ法によって二院制議会が設立されたので,立法権は漸次フィリピン人の手に移った。また,行政府のフィリピン人化も1913-21年のハリソン総督の時代にほとんど実現された。アメリカはこのようなかたちで,アメリカ流民主主義を導入したが,それを享受したのは,フィリピン議会や地方政府の選挙人資格にもみられるように,男子の有産階級出身のエリートのみであった。

 アメリカ体制期に入って,フィリピン経済は完全にアメリカに支配されるようになった。1909年に制定されたペイン=オルドリッチ関税法と,その一部を修正した13年の関税法で,フィリピンとアメリカの間には完全な自由貿易が成立した。その結果,フィリピンの外国貿易は輸出入ともに,全面的にアメリカ市場に依存するようになった。この貿易関係を軸に,アメリカ資本は輸出農産物加工部門,貿易・販売会社,鉱業,林業,電力事業などに進出した。

 29年に始まった世界恐慌によって,アメリカ国内では,フィリピン独立の主張が高まった。国内に大規模な農業部門を抱えるアメリカでは,フィリピンの植民地化に反対する声が当初から強かったが,大恐慌を迎えて,その主張が議会の大勢を占めるにいたったのである。その結果,34年にタイディングズ=マクダフィー法が制定され,翌35年11月15日,独立準備政府たるフィリピン・コモンウェルスが発足した。この頃,フィリピン社会は激動のさなかにあった。自由貿易体制と地主制度の下で窮乏化を加えていた農民が,1920年代以来全国各地でメシア運動を繰り広げ,中部ルソンや南タガログ地域では,組織化された大規模な農民反乱が相次いだ。こうした窮状を解決すべく,29年にはフィリピン社会党が,また30年にはフィリピン共産党が結成された。

1941年12月8日,太平洋戦争の勃発と同時に,フィリピンは日本軍の侵略を被った。42年5月のコレヒドール島陥落によって,フィリピン全土が日本軍の支配下に置かれた。日本軍は,42年1月より占領地に対して軍政を実施したが,この軍政はまったくの暴力的抑圧体制であった。言論統制のため,軍の認める新聞,ラジオ以外は,すべての報道機関が閉鎖された。政治組織もすべて解散させられ,かわってフィリピン版大政翼賛会〈カリバピKALIBAPI〉(新生フィリピン奉仕団の略称)が組織された。町内には隣組制度が組織され,治安維持のための相互監視と連帯責任の組織として,あるいはまた,配給制度,勤労奉仕のための組織として用いられた。日本軍はまた,婦女子の凌辱,物資の掠奪,残忍なゲリラ狩り,びんたの濫用で住民の怒りと怨恨を買った。このため,43年に入ると人心が離反し,反日ゲリラ運動が激化して,軍政の実行が危ぶまれるまでになった。

 こうした状況を緩和するために,43年10月,日本軍はラウレルを大統領とするフィリピン共和国の樹立に踏み切った。しかし,それはまったくの傀儡(かいらい)共和国だったので,反日ゲリラ活動はいっそう激化した。全国各地で結成されたおびただしい数のゲリラ組織は,その大半が連合軍西南太平洋司令部の指揮下に属する〈ユサッフェ・ゲリラ〉であったが,中部ルソンに根拠地を置いたフクバラハップは,それらとは独立に独自の目標,すなわち,日本軍の追放と地主制打倒の二つの目標を掲げて戦った。44年10月,アメリカ軍のレイテ島上陸を皮切りに,アメリカのフィリピン再占領作戦が猛烈な勢いで展開され,45年9月3日,日本軍は完全降服した。

日本軍敗退後の飢えと混乱の中で,46年7月4日,フィリピン共和国が独立した。初代大統領にはリベラル党ロハスが就任した。しかしこの独立は,アメリカに全面的に従属した名目だけの独立であった。共和国発足の日に締結されたフィリピン通商法で,フィリピンはその後も28年間,アメリカの経済的支配下に置かれることになった。47年には軍事基地協定,軍事援助協定の二つの軍事協定がアメリカとの間に結ばれた。軍事基地協定によってアメリカは,フィリピンに存在する23の軍事基地を99年間にわたって使用できることになった。51年にはさらに,両国間で相互防衛条約が結ばれた。

 政府のこうした対米従属政策と地主体制温存政策に反対して,中部ルソンでは,1946年から50年にかけて,フクバラハップの激しい武力闘争が展開された。土地問題は今や共和国政府の最も深刻な社会不安要因の一つとなった。55年にマグサイサイ政権下で制定された土地改革法,63年にマカパガル政権下で制定された農地改革法は,この問題に答えようとしたものであるが,地主階級の支配する議会で法案は骨抜きにされ,ほとんど実効をみなかった。

 1950年代には体制内エリートの中から反米ナショナリズムが台頭し,フィリピン通商法ならびに軍事基地協定の改正が行われた。反米運動は60年代に入って,学生や一般知識人,労働者などの間にも広がり,60年代後半には〈文化革命〉あるいは〈第2次プロパガンダ運動〉と呼ばれる,戦闘的な文化運動に発展した。おりから地下では,フィリピン共産党が再建され(1968年12月),軍事組織である新人民軍も結成された(1969年3月)。こうした高揚する反体制運動と,インフレ,失業問題など山積する経済不安の中で,72年9月,マルコス大統領によって戒厳令が施行され,フィリピン現代史は新しい局面を迎えた。
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1946年の独立以来フィリピンは,1935年憲法にもとづくアメリカ型議会民主制をとり,ナショナリスタ党,リベラル党の二大政党がほとんど交互に政権を交替していた。この安定状態を破ったのはマルコス長期政権(1965-86)の出現である。

共和国史上初の再選を果たしたマルコスFerdinand Marcosは,1972年9月戒厳令を布告,議院内閣制を規定した1973年憲法の公布を強行した。ただし新憲法にもとづく暫定国民議会は召集停止にしたまま旧憲法下の大統領権限は保持した。結局,81年1月戒厳令を解除したときには,憲法を修正してフランス型の新大統領制を成立させ,そのもとで大統領に選出された。

 1970年代初頭における強権政治への暗転にはそれを招いた客観的な背景がある。そもそも1935年憲法下の議会民主政治の実態は,二大政党に集まる伝統的な各地有力家族による支配ということであった。両党間に政治基盤や政綱の上で差はなく,ともに現状維持を利益としていた。経済開発の促進,土地改革はじめ社会改革の推進,他方アメリカへの過度の依存からの脱却という焦眉の課題への対応力を欠いており,その点で〈寡頭支配の打破〉〈新社会の建設〉の旗印を掲げたマルコスは,フィリピン国軍テクノクラート,取り巻きビジネス・グループばかりか,広く国民大衆をたやすく惹きつけることができた。

 しかし戒厳令初期には強権を背景に矢継ぎ早に展開された革新的政策も1970年代末には活力を失った。そのなかで第2次石油危機後の世界不況に加えて,83年8月のベニグノ・アキノ元上院議員暗殺事件に起因する政情不安が,深刻な経済危機を呼び起こした。アメリカはじめ国際的な批判が高まり,抑圧されてきた有力家族など反マルコス派は,人権擁護と民主主義を掲げるカトリック教会や多様化した市民運動とともに政権打倒運動を活発化させた。マルコスは事態の打開を大統領選挙の繰上げ実施に賭けた。

1986年2月の大統領選挙は国際的注視を浴びた。混乱した開票経過のなかでマルコスの当選宣告が強行されたが,その直後,国軍改革派を背景にしたエンリレ国防相とラモス副参謀長が野党統一候補コラソン・アキノ(故アキノ議員夫人)Corazon Aquinoを擁して決起したことで様相は一変した。反乱派を教会が支援し市民大衆が厚い盾となって防衛するなかで,アメリカ政府が事態収拾の主導権をとり,マルコスをハワイに亡命させた。この経過は〈二月革命〉あるいは〈ピープル・パワー革命〉と呼ばれる。

 アキノ大統領は就任後,〈暫定憲法〉を公布して立法権をひきつづき掌握し,任命した憲法制定委員会に新憲法起草を急がせた。1987年2月の国民投票で成立した新憲法は,アメリカ型大統領制,二院制議会など政治制度の上では1935年憲法体制への回帰であるが,大統領の権限の縮小,大統領・議員の任期制限(大統領は1期6年)などマルコス色の払拭と独裁再発防止の規定,国民の保護や基本的人権の保障の規定などピープル・パワーに配慮した側面も目立つ。

 長期独裁政権,特にその末期の政治・経済の混乱の後を受けたアキノ政権の課題は,和平と和解,経済の再建,民主主義の復活であった。このうちわずかに達成されたのは,脱マルコス化と民主的政治過程の整備という制度面だけであった。共産系武装反乱との和平,国軍の旧悪追及を急ぐあまり,国軍改革派分子による4年間で7件のクーデタを招き,政情不安は続いた。国際的支援体制のもと始動していた経済回復も水を差されて頓挫した。

 これらの課題を最終的に完成させたのは,1992年5月に新憲法下で選出された初の大統領フィデル・ラモスFidel Ramosである。ラモスは,就任するや武装反乱諸勢力への恩赦と共産党合法化の方針を表明,95年に国軍改革派との,96年にイスラムのモロ民族解放戦線との和平にこぎつけた。共産系の民族民主戦線-新人民軍との長い交渉は妥結に至っていないが,共産勢力自体は93年に分裂し,勢力は著しく減退した。電力危機の克服など着実な経済運営と対外開放化政策を好感した外資の急流入により,94年以来経済も好転し,2000年に周辺諸国の水準に追いつくことを国家目標に掲げるに至っている。

 新憲法の一つの柱,地方分権化は,1991年地方自治法に結実した。地方行政組織は1995年現在,76州,60特別市と1543郡,4万1908バランガイ(村)からなっている。76州は行政上16地方(コルディリェーラ,ムスリム・ミンダナオの2自治地方を含む)として括られることが多い。

対米関係に過度に傾斜していた対外関係は,マルコス政権以来多角化を強めている。1974年のラウレル・ラングレー通商協定の満期失効は対米〈特殊関係〉脱却の第一歩であったが,軍事関係でも91年,上院はついに在フィリピンの米海空軍基地の存続を否決した。米軍は翌年11月撤退を完了し,米比間に残るのは1951年調印の相互防衛条約だけとなった。アメリカは経済関係では,往復の貿易額,直接投資残高において優位を保つが,日本に輸入額,年次投資額,とりわけ政府開発援助額で首位の座を譲っている。ただし近年の対外関係多角化の力点はアジア,特にASEANにおかれている。

 米軍撤退は,国内治安主眼の貧弱な防衛力を対外防衛中心に再編する課題を提起した。1995年の国軍近代化法の制定により15ヵ年計画,当面は5ヵ年計画で兵力を10万人に縮小する一方,装備の近代化を急ぐ構えである。

1人当り国民総生産1050ドル(1995)は中所得国のうちでも低位に属し,またその伸びも世界有数の高い人口増加率(90年代の年平均2.3%)も災いして1985~94年の年平均1.7%と鈍い。しかも富の分配は,全世帯の上位10%が全所得の36%を手にし,全世帯の36%が絶対的貧困層に属する状態である(1994)。

 労働人口の半数近くが従事する農業では,食糧作物である米・トウモロコシが全収穫面積1251万haの52%を占める。輸出作物ではココナッツの比重が同25%と高く,バナナ,砂糖キビ,コーヒー,アバカ(マニラ麻)と続く(1995)。1960年代後半以降の高収量品種の導入で米が一時自給状態となったが,80年代半ばから輸入がふたたび常態化している。懸案の土地改革は,マルコス政権,アキノ政権とも初期には大々的に取り上げたが,持続的な推進力に欠けた。とりわけ膨大な土地なし農業労働者の問題は深刻である。

 工業では,独立後,輸入・為替管理,奨励的税制,割高の為替レートなど一連の保護政策が奏功して輸入代替工業化が進展し,1960年代初頭ではアジアをリードしていたが,その後は停滞的傾向を強めた。高関税や輸入規制など国内保護政策を維持した結果,雇用節約,国内需要依存,低生産性,資源浪費が体質化したのである。マルコス期に工業政策の転換が図られ,輸出多角化に若干の成果を見たが,政治的に既得権益に手がつけられず,保護主義は基本的に改まらなかった。やっと80年の危機に至って経済構造調整計画が始まり,課題は後続の政権に引き継がれた。ラモス政権になって,経済の自由化,規制緩和,公営企業の民営化などの効果が現れ,経済成長の加速化に寄与している。

 サービス業は特に就業構造の上から注目される。都市での工業の雇用吸収力の弱さが,農村から排出された過剰労働力をサービス業に向かわせるのであるが,その実体は都市における各種雑業を形成する部分が多く,偽装された不完全就業と見られる。農村,都市を通じて雇用創出は最大の課題であるが,特記すべきことに全世界的に出稼労働者が展開し(1995年推計で海外在住の移民と出稼労働者計600万人),安全弁となっている。

 1990年代に入り外国直接投資の急流入によって輸出の伸びと構成の変化が著しい。95年現在,輸出の77%が非在来の工業製品(半導体など電気電子製品が43%,衣料品が15%)であり,在来品は最大のココナッツ製品でも6%にすぎない。これは反面,中間財,資本財の輸入急増を招き貿易赤字を拡大させているが,出稼ぎ労働者を中心とした海外からの送金は94年に約60億ドルとも推定され,貿易赤字の大半を埋めている。
執筆者:

フィリピン社会の歴史的形成過程を反映して,フィリピン文化は地域差に富んでいる。大別すると,カトリック文化圏,イスラム文化圏,山地少数民族文化圏に分けられるが,各文化圏の中でも文化領域によっては差異がある。しかしその一方,フィリピン群島全体に共通した文化があることも否定できない。ここでは,国民の大多数が属するカトリック文化圏を中心にみていくことにしよう。

 フィリピンで早くから発達した文化様式の一つは,口承の歌と叙事詩であった。この伝統をうけて,スペイン体制期に入ると,パションをはじめとする宗教的内容の詩や,コリドkorido,アウィットawitなどの韻文形式の物語が盛んになった。バラグタスが書いた《フロランテとラウラ》(タガログ語。1838年作)は,アウィットの古典的名作である。スペインはまた,カトリシズムの宣教をかねて,コメディヤkomedya,モロモロなどと呼ばれる芝居の形式を普及させた。フィリピンで書かれた文学が盛んになったのは,19世紀末葉のプロパガンダ運動期に入ってからのことであった。スペイン語で長編小説を著したリサールやパテルノPedro A.Paterno(1858-1911)らが著名である。19世紀末葉にスペインから伝わったサルスエラは,20世紀に入ってフィリピンのことばで盛んに演じられるようになり,1920~30年代に最盛期を迎えた。

 サルスエラが衰退する頃から,アメリカ文学の影響をうけた英語の短編小説が盛んになった。英語文学が盛んになるに伴って,フィリピン諸語による文学は,未熟な文学として蔑視されるようになり,この傾向は1950年代ころまで続いた。しかし,その中で,L.K.サントスA.V.エルナンデスらは,タガログ語で優れた社会派の小説や詩を著した。60年代後半から文化の民族化運動が盛んになり,ピリピーノ語作家や詩人が輩出するようになった。英語の現代作家の中では,ホアキンNick JoaquinやゴンサレスN.V.M.Gonzalezらが国際的にも知られている。

 フィリピンで絵画芸術が本格的に始まったのは,19世紀末葉に2人の巨匠J.ルナとイダルゴFelix Resurreccion Hidalgoが登場してからのことである。20世紀前半には風俗画が盛んで,この流れの中からF.アモルソロが登場した。20世紀中ごろにいたって,共和国独立と歩調を合わせるように,フィリピン現代絵画時代が幕開けし,オカンポHernando R.Ocampo,フランシスコCarlos V.Francisco,ルースArturo Rogerio Luzらの多彩な才能が流派を競うようになった。また,この頃からようやく,彫刻芸術にも関心が寄せられるようになり,現在は,トレンティーノGuillermo Tolentino,アブエバNapoleon Abuevaの2人の巨匠が目ざましい活躍を示している。先述の文学と並んで,スペイン文化の影響を強力にうけたのは建築であった。かつてフィリピンには石造りの建造物はほとんどみられなかったが,スペインの植民地支配以後,アンティラン様式と呼ばれる石造りの家が上流階層に広まり,現在でもいたる所にその姿をとどめている。スペイン建築文化の粋が発揮されたのは教会建築であった。教会建築の多くは,現在でも,往時の荘厳なバロック様式を保っている。
執筆者:

混血とキリスト教化が顕著な中心部では,ヨーロッパ音楽をそのままの形で演奏したり,スペイン的色彩を残しながらも新しいフィリピン様式と呼べる音楽と舞踊をつくりあげている。たとえば〈ロンダヤrondalla〉という合奏形態は,ギター,マンドリン,フレット付きベースを伴奏に,ユニゾン,3度平行,パート合唱による親しみやすい旋律をうたい,社交ダンス的に着飾りパターン化したステップで踊る集いの場を支えている。さらに,マレー系の伝統であった〈ろうそく踊〉(ろうそくを立てた皿を手や頭にのせる)や竹踊〈ティンクリンtingkling〉(長い竹の棒をリズミカルに打ち合わせ,踊り手は足をはさまれないように規則正しいステップでアクロバット的に踊る)などが,西洋的にアレンジされて受け継がれている。伝統芸能が根強く生きているのは周辺地域においてである。ルソン島北部の山地民族(俗称イゴロット族)はインドシナとのつながりを暗示する平(たいら)ゴング(銅鑼)を大きさの異なる6個ないしその倍数で組み合わせ,1人が一つずつ担当し,構え方や手の使い方を微妙に変えて,音色の多様性を利用した独特のアンサンブルをつくりあげている。このアンサンブル形態は,搗奏竹筒,割れ竹,パンパイプス,竹筒琴の演奏に共通する構成原理をもっている。南部のミンダナオ島やスールー諸島ではゴングに突起がつき,旋律演奏が主眼となる点で北部と大きく異なり,むしろインドネシアのガムランとの関連が大きい。ゴングを横にねかせて枠の上に並べたクリンタンkulintangを中心とするアンサンブルは,5音音階とコロトミック(コロトミーcolotomy音楽的句読法)な規則正しい時間分割を最大の特徴としている。フィリピンの代表的な楽器としては,このほかに口琴(竹製のクビン,金属製のオンナ),舟形撥弦のクジャピ(カチャピ),ノーズ・フルート,割れ目太鼓,搗奏竹筒,鉢巻式歌口の笛などがある。声楽は北部の自由リズムとファルセット多用の合唱や語り的独唱,南部のイスラム教徒による装飾音の多い歌唱などに特徴がある。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フィリピン」の意味・わかりやすい解説

フィリピン
ふぃりぴん
Philippines

太平洋と南シナ海の間のフィリピン群島からなる島嶼(とうしょ)国家。正称はピリピナス共和国Republika ng Pilipinas。国名は16世紀中ごろスペインの探検家が皇太子フェリペにちなんで名づけた群島名フィリピナスによる。首都はマニラ(1948~76年はケソン・シティ)。面積は30万平方キロメートル、人口8857万(2007)。

[高橋 彰]

自然

フィリピンは7100の島からなるが、島名をもつのはそのうち3144である。主要なものはルソン島とミンダナオ島、その間に散在するビサヤ諸島のサマル島、レイテ島、マスバテ島、ボホル島、セブ島、ネグロス島、パナイ島および西のパラワン島であり、ルソン島とミンダナオ島で総面積の66%、主要な11島で92%を占める。山がちで、国土の52%は10度以上の傾斜地であり、主要な平地はカガヤン川、アグノ川、パンパンガ川、ビコール川、アグサン川、ミンダナオ川などの大河の下流に広がるにすぎない。おもな山脈は第三紀造山運動によって形成されたもので、ほぼ南北に連なる。環太平洋火山帯に位置し火山が多い。最高峰はミンダナオ東岸のアポ火山(2954メートル)で、ルソン島南端のマヨン火山は完璧(かんぺき)なコニーデ(円錐(えんすい)火山)の美しさで知られる。マニラ南方のタール火山のように観光地としてにぎわうところも多いが、ルソン島中部のピナツボ火山は1991年以来噴火を繰り返し、火山灰と泥流によって山麓(さんろく)の住民に甚大な被害を与えた。

 気候はおもに熱帯モンスーン(季節風)気候に属する。年降水量は全国平均約2400ミリメートル、ビサヤ諸島東岸では4000ミリメートルに及ぶ。概して東岸部とルソン島山岳地方で降水量が多く、南西部とビサヤ諸島中部で少ない。降水の季節分布は、北東と南西のモンスーンおよび台風によって決まる。マニラなどルソン島西岸では6~10月が雨期で、降水の80%はこの時期に集中する。一方東岸ではとくに顕著な乾期はないが11~1月に降水が多い。ミンダナオ島以外の島々はしばしば台風に襲われる。

[高橋 彰]

歴史

16世紀ごろのフィリピンには統一的権力は存在せず、小地域の首長の連合が形成されていた。単位社会としてのバランガイは、首長(ダト)とその一族、平民(自由民)、隷農・家内奴隷の3階級から構成され、自給経済を営んでいた。フィリピンと外部世界との接触は植民地化であった。1521年にマゼラン(マジェラン)がビサヤ諸島に到達したあと、1565年からスペインによるメキシコ経由の植民地支配が始まったが、当初はアジア交易の拠点としての意味が強く、メキシコのアカプルコとマニラを結んでガレオン船が往復した。スペインが植民地経営に積極的になるのは18世紀後半になってのことであった。18世紀末から砂糖、タバコ、マニラ麻、インジゴなど輸出向け商品作物の栽培が盛んになるが、それは1834年のマニラ開港、スエズ運河開通(1869)などによって急速に展開し、モノカルチュア(単一商品作物栽培)型経済の形成が進んだ。この動きは国内の地主・商人層に富裕な家族をつくりだし、その子弟のなかにはヨーロッパ留学などで自由思想に触れ、民族自治、独立を主張する者も現れた。しかし、ラテンアメリカの植民地のほとんどを失ったスペインは、むしろフィリピン支配を強化しようとした。

 1890年代後半から、フィリピン革命とよばれるスペイン支配への武力反抗が始まり、1899年にはアジアで最初の共和国が誕生した。そのころキューバ独立問題からスペインと開戦したアメリカはフィリピンを占領し、パリ条約によってフィリピン諸島の割譲を受けたが、独立を要求するフィリピン革命軍を鎮圧するのに数年を要した。アメリカ統治のもと、フィリピンの経済は対米輸出を軸に発展を遂げ、マニラは東南アジアのなかでもっとも繁栄した都市となった。ダバオが日本人の手によって開発されたのもアメリカ統治下においてであった。アメリカがフィリピン領有に踏み切ったのは、19世紀末のアメリカが帝国主義段階に達していたからであったが、当時の国際関係のもとで、領土的野心を否定し、フィリピンを民主主義主権国家に育成することを領有の目的として掲げることを余儀なくされていた。しかも、その後フィリピン人の間から独立要求が高まり、さらに1920年代末からの大恐慌が、国内に農業部門を抱えるアメリカをしてフィリピン領有を重荷と意識させるに至った。こうして、1934年にフィリピン独立法がアメリカ議会を通り、1946年の独立への準備として、1935年フィリピン自治政府が大統領ケソンのもとに発足した。

 1941年に始まった太平洋戦争に際してフィリピンは日本軍の占領下に置かれたが、独立の約束を得ていたフィリピン人にとって日本軍は侵略者であったから、多くの抗日ゲリラが組織された。とくに戦争末期のフィリピンはアメリカ軍による反攻の目標とされたためもっとも激しい戦闘の場となり、フィリピン人は計り知れない被害を被った。この事実は長く日本とフィリピンとの関係に影響を及ぼした。1946年7月4日、フィリピンは独立を達成した。

 独立後のフィリピンの政治形態はアメリカに範をとったもので、直接選挙による正副大統領、上下二院からなる議会、3段階の裁判所をもち、三権分立を旨とし、リベラル党、ナショナリスタ党の二大政党が交互に政権を担当した。しかし、独立が恩恵的に与えられたものであっただけに、他のアジア諸国とは違ってナショナリズムが旧宗主国に向けられることはなく、外交においても対米追随姿勢がつねに顕著だった。近隣外交に積極的になったのは1960年代に入ってからのことである。

 フィリピン政治のもう一つの特質は政治支配層が固定性を示していることである。19世紀後半の商品農業の展開のもとで成長したメスティソ(混血)を中心とする大地主層は、アメリカ統治下にもエリートとしての地位を保ち、対米農産物輸出の増大を背景に産業資本家としての性格も強めた。彼らは日本軍の占領下にも支配的地位を保ち、独立後は政治権力を握り、天然資源の開発をわがものとし、経済成長を背景に銀行業に乗り出し、アメリカおよび日本の外国資本との提携を深めていった。このような特権グループの中心をなすのは、50~100の家族である。ルソン島、ネグロス島、パナイ島のサトウキビ農園主から出発した者が多く、スペイン系の血をもち相互に姻戚(いんせき)関係で結び付いている。この国の政治の中枢にあった24人の上院議員の多くは、これらの家族から出ていた。

 このような政治状況を揺るがしたのが、大統領マルコスによる戒厳令政治であった。フェルディナンド・マルコスは北イロコス州の代議士の子に生まれ、若くして下院議員となり、レイテ島の大地主の一族と結婚することで上院議員に出馬するきっかけをつかんだ人物である。リベラル党内で大統領候補の指名を得られなかったマルコスは、ナショナリスタ党に移り、1965年指名を得て当選した。マルコスは経済開発を最大の看板に、外資導入、工業化、農業開発、土地改革などに積極的に取り組み相当の成果をあげ、1969年、この国の大統領として初めて二度目の当選を果たした。その後、彼は長期政権を実現するために憲法の3選禁止規定の廃止や責任内閣制の導入などを試みたあげく、1972年9月に戒厳令を布告して、議会を停止し、有力な政敵を逮捕し独裁体制を確立した。

 こうしてフィリピンはアメリカ型民主主義に決別を告げたが、マルコスは強権支配を正当化するため、特権層による寡頭支配を廃絶して大衆を基盤とした新社会を建設することが戒厳令の目的であるとし、土地改革、国民投票、農民労働者代表の国政参加など大衆迎合の姿勢も示した。戒厳令体制は、安定した政治を求めていた国外・国内の企業家層の要望にこたえたものでもあった。アメリカ、日本などの外資は急増し、後述のようにフィリピン経済は活況を呈した。またこの時期にフィリピン政治は、それまでたてまえにおいて欠如していた土着原理を求めるようになった。しかし、1970年代後半に入ると、独裁政治のもつ矛盾と腐敗が露呈し始めた。大統領一族や側近による経済支配と私物化が露骨になり、国民の批判は高まる一方であった。そして第二次オイル・ショック後に経済の沈滞が始まったころから、旧特権グループによる反撃が強まった。

 1983年8月、死刑判決を受けながらも病気療養を理由にアメリカ亡命を認められていた元上院議員のベニグノ・アキノがマニラ(現ニノイ・アキノ)空港で暗殺された。この事件をきっかけに国内での反政府感情が一挙に爆発し、国際的なマルコス独裁体制批判が急激に高まった。アキノ事件を契機にフィリピン経済は危機に陥った。政治不安が高まるなかで資本逃避が進み、海外からの資金流入は途絶した。アメリカをはじめとする先進国の援助も減少した。好況期にはマルコスを支持した企業家層の政権批判が強まった。

 1986年2月に大統領選挙が行われた際、反マルコス派はコラソン・アキノ夫人を大統領候補に立て、政権側と激しい選挙戦を展開した。選挙管理委員会の集計に基づいて国民議会はマルコスの当選を宣言したが、野党側は自分たちの集計結果を基礎にアキノの当選を主張し、就任式を強行した。その間、マルコス政権の国防相エンリレと参謀総長ラモスが政権を離脱し、エドゥサ(EDSA)通りの国防省本部に立てこもるという事態が生じた。マルコスの政府軍による鎮圧からエンリレらの反乱軍を守ろう、というシン枢機卿(すうききょう)のラジオ放送にこたえて、多数の市民が3日余り、国防省の周囲に集まった。駐留米軍も政府側空軍の動きを牽制(けんせい)した。マルコスは2月25日、家族と側近を伴い、米軍機でフィリピンを離れハワイに向かった。こうして、20年に及ぶマルコスの長期政権は終わりを告げた。

 この政変はエドゥサ革命、あるいはピープル・パワー革命とよばれることも多い。この政変をもたらしたエネルギーは長期独裁政権の腐敗と失政に対する国民の怒りに発するものであるが、それを指導したのは旧特権層と国内企業家層で、また成長しつつあった中間層が新しい政治要因となった。さらにカトリック教会とアメリカの役割も見逃せない。

[高橋 彰]

政治

1986年2月に発足したアキノ政権は民主主義回復と経済再建を唱え、新憲法を制定し、上下二院制議会を復活させた。しかし、クーデターが繰り返され、経済基盤の再建は遅れ、経済成長はなかなか軌道に乗らなかった。

 1992年にフィデル・ラモスFidel V. Ramosを大統領とする政権が発足し、アキノ政権時代にクーデターを繰り返した関係者や共産勢力を抑え、南部ミンダナオの独立運動を展開していた最大の反政府イスラム・ゲリラである「モロ民族解放戦線(MNLF)」との和平合意も達成し、政治的安定をもたらすことに成功した。これを基盤に、経済成長を最優先課題として経済改革に着手し、電力、水道などの国営企業の民営化、税制優遇措置による外資の積極的導入を進めたことなどにより、マイナスだった経済成長率を5%以上に引き上げた。

 1998年の任期満了に伴い、続いてジョセフ・エストラダJoseph Estradaが貧困対策を掲げて大統領に就任した。フィリピン独立後9人目の大統領となったエストラダは、フィリピンでの国民的人気を誇る俳優であった経歴をもち、自らも中流家庭に生まれていることから、経済改革の流れから疎外されていた大衆の人気を集めた。

 エストラダ政権下では、ラモス政権が進めてきた経済政策を継続し、1997年に東南アジアを襲った通貨危機を乗り越え、1998年の経済成長率をマイナス0.6%にとどめる健闘をみせる一方、公約として掲げた貧困対策は、財政赤字などから思うように進まなかった。エストラダは汚職や横領の疑惑により、2001年1月辞任に追い込まれた。これに伴い、副大統領のアロヨGloria Macapagal Arroyoが大統領に就任した。

 これらマニラを中心とした共和国体制内の政権をめぐる争いのほかに、現代政治において注目すべき二つの動きがある。一つは左翼反体制運動の成長である。従来は合法的な階級政党が不在であったため、国政に労働者や農民の立場が反映されることはめったになかったが、合法的な左翼政党が認められるなど、新しい流れがみられる。長い間社会の宿弊であった農村問題は、マルコス政権期に始まった土地改革のある程度の進展と経済開発成果の農村部への波及によって、若干改善された。また、都市中間層の拡大傾向は注目されるが、基本的な階層格差の懸隔が縮んだとはいいがたい。もう一つは少数民族の武力抗争の高まりである。古くからキリスト教徒の圧力に反抗してきた南部のイスラム教徒やルソン島山岳地方の山地部族民の反発は、自治権拡大さらには分離運動へと高まり、武力闘争が続いていた。ラモス政権はこれらの反政府組織との交渉を続け妥協にこぎつけたが、反面、イスラム過激派の先鋭化もみられる。反体制運動が1990年代なかばから鎮静化の方向にあることは認められるが、どこまで社会の安定が築かれたかについての即断は許されない。

 外交面での大きな変化は1991年に米軍基地が返還され、米軍がフィリピンから撤退したことである。独立後、一貫して続いた外交的、軍事的アメリカ一辺倒からの離脱といえる。フィリピン人の価値観からアメリカ志向が消えるわけではないが、ASEAN(アセアン)(東南アジア諸国連合)などとの近隣外交が重みを増している。

 議会(国会)は上院24議席、下院275議席。上院議員の任期は6年で、連続3選は禁止。下院議員の任期は3年で、連続4選は禁止されている。下院議員のうち20%は比例代表政党制、残りは小選挙区で選出される。また、大統領の任期は6年で、再選は禁止となっている。

 地方行政制度は、全国はマニラ首都域と81州からなり、その下に市・町が置かれ、さらにバランガイとよばれる地域共同体レベルの行政単位に分けられる。これら3段階の自治体はそれぞれ首長と議会をもつ。また、州は16地域にまとめられているが、このなかには、少数民族の分離運動への妥協策として特別立法により設けられた北部のコルディリエラ行政地域と、南部のムスリム・ミンダナオ自治地域が含まれる。

[高橋 彰]

経済

植民地としての歴史の長かったフィリピンは、農林鉱産品などの第一次産品の輸出に頼るモノカルチュア(単一商品作物生産)型経済構造を与えられていたが、独立後はそれからの脱却を目ざして工業化に努めてきた。もともと産業資本家の形成が東南アジアでも早かったうえ、開放型の経済政策をとって外資導入を図り、アメリカとの間の特恵貿易関係のもとで第一次産品輸出も伸びたので、1950年代、1960年代には順調な経済発展がみられた。日本からの賠償も資本形成に貢献した。1972年に始まった戒厳令体制の下で、治安の回復や労働運動の規制が進んだので、外国資本の流入が増大し、国内企業家の投資意欲も高まった。製造業の成長は目覚ましく、産業構成比は1970年の18%から1980年は24%、1997年は32%へと増えた。農業・工業・サービス業の3部門の構成比は、1970年の31・25・44から1985年の29・32・39、1997年には20・32・48へと推移した。

 貿易にも大きな変化がみられた。砂糖、ココナッツ関連商品、木材、銅鉱など植民地時代からの輸出品に、非伝統的輸出品とよばれるものが加わった。半導体などの電気・電子機器部品、衣料、化学品、機械類などの製造業部門によるものだけで総輸出額の77%(1995)、それにバナナ、魚類(エビなど)、焼結鉄、コーヒーなどを加えると86%に及ぶ。その反面、ココナッツ関連商品と砂糖類はあわせて9%まで落ち込んだ。注意しなくてはならないのは、製造業部門の輸出が大きくなっても、資本財や原材料、半製品などの輸入が大きくなるから、貿易収支を部門別にみると、製造業は大きな赤字で、外貨獲得上、農業部門が格段に大きな役割を果たしていることである。貿易相手国にも変化がみられた。独立後一貫してアメリカが最大の相手国であったが、1960年代末から日本が肩を並べるに至り、1970年代からはアジア諸国の比率が高まり、中東諸国との貿易も伸び、貿易の多角化が進んだ。貿易外の外貨収入源として1970年代から急増したものに海外出稼ぎがある。海外契約出稼ぎ者は陸上勤務が49万人、船員が17万人(1995)で中東、アジアをはじめ世界各地で就労しており、その送金額は30億ドル、実際はその2倍を超えるとみられ、外貨獲得に重要な役割を担った。

 しかし、フィリピン経済は1980年代前半に停滞に陥った。1979年の第二次オイル・ショックとそれに続く世界的な不況のもとで経済成長は鈍化し、1982年に成長率は1%台まで下がった。第一次産品の輸出量は減り、輸出価格の低下にもかかわらず輸入原材料価格は上昇し、金利もあがって対外支払いは急増した。国内の不況は深刻になる一方であった。1983年のアキノ元上院議員暗殺事件はフィリピン経済を一挙に危機に陥れた。政治不安が深まるなかで、短期資金の逃避と投資の回収が始まり、海外資金の流入は止まった。外貨準備は急減し、債務支払い不能、輸入削減が続いた。工場閉鎖が増え、失業者は巷(ちまた)にあふれ、インフレは50%に及んだ。1984年、1985年に経済成長率はマイナス6.8%、マイナス3.8%にまで落ちた。

 アキノ政権は前政権の「負の遺産」を負って発足した事情もあって、経済再建はなかなか進まなかった。クーデターの頻発は外国投資を躊躇(ちゅうちょ)させたし、長期にわたる国民経済のための基幹施設に対する投資(インフラ関連投資)の遅れもあって、電力不足が顕著で、工業生産への影響は著しく、市民生活にも大きな困難を与える状況が長く続いた。周辺の東南アジア諸国が1980年代後半から高度経済成長を続けているなかで、フィリピンの実績は見劣りが著しく、1991年にはマイナス成長を記録するほどで、「アジアの病人」とまでよばれた。しかし、外資法の改正や外国銀行法などによる自由化を進め、外資の誘致を図り、また、公共事業分野での民間部門の活用を進めた結果、1993年ごろからようやく経済が上向き始めた。東南アジア諸国内で、労働力と用地の獲得が困難になってきた時期でもあったため、失業率が高く(8~9%台)、比較的高学歴の労働力が豊富で、用地も得やすいフィリピンは、日本や香港(ホンコン)などからの投資を引き付けた。マニラ近郊やセブ島その他に多数の工業団地が建設され、また、米軍から返還された基地の跡地の工業団地化が進められた。とくに、海軍基地があったスービック湾には自由貿易区が設けられ、香港に匹敵する貿易産業流通の大拠点の育成を目ざして、工業とサービス関連企業の誘致が進められた。

 1997年にアジアを襲った通貨危機では、フィリピンも大きな被害を被ったが、1998年の経済成長率をマイナス0.6%にとどめるなど、健闘した。

 2000年以降、アメリカ、日本、韓国などの工業先進国が半導体などの電子部品の製造工場をフィリピンに移転するに伴い工業化が進み、経済成長率は7.3%(2007)まで上がり、2000年から11%台であった高い失業率も2007年には7.3%に下がった。2000年に790億ドルであった国民総生産(GNP)は、2007年には1576億ドルと倍増し、1人当りGNPも1051ドルから1777ドルと1.7倍になっている。

 農業は就業人口の37%を占めており、フィリピンの主要産業である。貿易収支では農産物が最大の黒字を生み、1980年代なかばの経済危機に際しても農業は経済の底を支える力を発揮した。農地1220万ヘクタール(2005)のうち、食糧作物では米が407万ヘクタール(収穫面積。以下同)、トウモロコシ244万ヘクタール、商品作物ではココナッツ324万ヘクタール、サトウキビ37万ヘクタール、マニラ麻12万ヘクタール、タバコ3万ヘクタールである。フィリピン農業の特質の一つは、早くからサトウキビやパイナップルなどで、企業的大農園がみられたことであった。1960年代後半から日米の外国資本の主導でダバオ地方に大規模なバナナ農園が開かれ、現在でも主として日本を市場とした生産を行っている。

 フィリピン農業の生産性は低く、稲作でいえば長い間東南アジアでも最低のレベルにあった。この低生産性の要因の一つは地主制で、分益小作制と農家負債が大多数の農民に貧困を強い、農民運動や農民反乱の原因ともなった。

 本格的な土地改革が行われたのは1972年からである。戒厳令下に大統領マルコスが実施した「農民解放令」は、米とトウモロコシの作付地を対象として、地主の保有地を7ヘクタールに制限し、それ以上の農地は小作農に年賦で買い取らせて自作農とすること、7ヘクタール以下の地主の小作地については分益小作関係から定額借地関係に変えることによって、農民の所得を向上させること、などをおもな内容としたものであった。

 この実施には多くの問題も残されたが、少なくとも米とトウモロコシの作付地については大中の地主をなくし、中部ルソン平野のような小作率の高い米作中心地の小作農家を、自作農や定額借地農に変えるうえで効果があった。1970年代の農業技術革新の進展もこの土地改革に支えられていた。

[高橋 彰]

社会

フィリピンには2万年以上前からネグロイド系の住民が住み着いていたが、その後、西および南からの民族移動が繰り返された。住民の90%を占めるのはマレー人と称されるなかの新マレー系の民族で、さらに中国、スペイン、日本、アメリカなどからの流入があったため、民族構成はきわめて多様なものとなり、80以上の民族と134の言語グループを数える。おもな言語グループは、セブ、タガログ、イロカノ、ヒリガイノン、ビコル、サマル・レイテ、カパンパガン、パンガシナンの8グループである。

 人口増加率は1950年代、1960年代には3%を超えていたが、1980年代前半には2.5%、2000年以降は2%となっている。全人口の52%は農村に居住している。1970年以降の著しい傾向はマニラ首都圏への人口集中で、首都圏の人口は全人口の12%を超える。流入者のなかには、スラムに滞留して劣悪な労働条件のもとに、雑多な仕事で生計をたてている者も少なくない。もう一つの人口の流れは、ルソン島北部やビサヤ諸島の人口稠密(ちゅうみつ)地方から、ミンダナオ島その他の未墾公有地への入植である。その多くは不法占拠者とされていたが、1980年ころからは政府もこの人々の権利を保護する方向を打ち出している。

 住民の階層構成は典型的な二階層社会をなしていた。ごく少数の特権エリートが政治、経済、社会の実権を握り、大多数の国民は無権利な状態に置かれているうえ、中間層の形成が遅れているため二つの階層の間の差は大きく、しかもその間の社会移動のための階梯(かいてい)が用意されていない。マルコス政権の開発優先政策のもとで産業は発展し、中小企業家や大企業職員などの中間層が以前よりは成長して、1986年の政変でも役割を果たした。

 もう一つの特徴は、東南アジア諸国の多くに共通することであるが、社会構造が双系制親族関係を基礎としていることである。親族組織のうえで男系、女系の間の差がほとんどない。財産相続は男女均分が原則となっているし、結婚後の居住も夫方、妻方のいずれかに定まっているわけではない。親族内の個人と個人の関係も、単系親族原理に基づく日本のように家系上の配置によって定まっているのではなく、かなり任意なものとなっている。だから、親族関係はつねに拡散する傾向をもっている。そのため、有力な個人との間に強いつながりをつくることで経済的、社会的な庇護(ひご)を得ようとする。親族の場合ならその個人との関係を密にすることが必要となるし、非親族の場合は、カトリック儀礼の教父子関係などを利用した擬制親族関係や、親分・子分の庇護・奉仕関係などで安定を図ることになる。

[高橋 彰]

文化

「スペインはカトリシズム、アメリカは民主主義と教育をもたらした」というのは、フィリピン人がよく使うことばである。国民の大半がキリスト教徒であり、英語が広く用いられているし、欧米風のエチケットを重んじるなど、他の東南アジア諸国に比べて外来要素が濃いことが容易に認められる。フィリピン人も自分たちがアジアより欧米の文化を強く受け入れていることを強調することが少なくない。しかし、外来要素は表面的なもので、文化の本質は東南アジアの伝統のうちにある。

 宗教はカトリック教徒がもっとも多く83%を占め、その他の諸派をあわせるとキリスト教徒は93%に及ぶ。イスラム教徒はミンダナオ島、スル諸島、パラワン島に住む。また山地の部族民には伝統的な精霊信仰を守っているものが多いが、近年はキリスト教の布教も進んでいる。イスラム教徒の数は統計では5%であるが、実際はもっと多いとみられる。フィリピンのカトリック教徒、とくに中産層には敬虔(けいけん)な信者が多く、毎日の祈りと日曜の礼拝を欠かさない。しかし、彼ら自身は意識していないが、フィリピンにカトリック信仰が浸透していく過程で、土着の精霊信仰と重層化し、フォーク(民俗的)・カトリシズムの形がとられた。フィリピンのカトリック信者の日常生活において、とくに大衆は行動選択の基準が土着要素から強く与えられていることはよく指摘される。

 アメリカの統治下で教育の目覚ましい普及がみられたこともよく知られている。とくにアメリカ式初等教育が全国の村々にまで広がり、現在では小学校の就学率は100%に近い。初等教育(小学校6年間)は義務教育。中等教育は4年間で他の国より短いが、高等教育が早くから盛んで、大学、専門学校などの高等教育機関数は1605校(2004)となっている。そのうち約90%を私立学校が占めている。

 識字率は94%(2007)に達しているが、アメリカ式の初等教育の普及は、一面でこの国の言語状況に特異な様相を与えることになった。20世紀初めにアメリカが小学校教育を英語で行う方針を導入して以来、この国の教育言語はすべて英語となったので、小学校を出ていればだれもが英語を使えるはずだというたてまえができたのである。これは独立後もそのまま継承された。他面、1937年に国語として認められたピリピノ語(ルソン島中南部のタガログ語を基礎とする。後にフィリピノ語と改称されている。)の普及の努力は十分といえなかった。そのため、科学技術はもちろん、学問、文芸に至るまで英語で行われ、立法、司法、行政をはじめ新聞、放送など国民的情報のほとんどすべては英語を知らねば接近できない状況となった。このため、英語を習得できた者とそうでない者との間の情報をめぐる格差は大きい。英語が本当に普及したのなら問題はないが、十分に使いこなせるのはその10~15%程度とみられる。このような言語の階層的、地域的分断状況にも1970年代以降新しい動きがみられる。戒厳令体制以後の土着原理志向は、言語ナショナリズムの動きを強め、フィリピノ語(ピリピノ語)の利用が行政、教育、マスコミなどの各分野で広まっている。

[高橋 彰]

日本との関係

室町時代の末期から江戸時代の初めにかけて、朱印船などによる日本とルソン島との交易が行われ、マニラに日本人町もつくられたが、鎖国によって往来はとだえた。明治以後は、20世紀初めのダバオのマニラ麻農園の開発など、日本の資本進出が行われた。太平洋戦争における日本軍の侵攻と占領の記憶は、長くフィリピン人の反日感情として残った。1956年(昭和31)日比賠償協定が締結され、国交を樹立、以後両国の通商関係は年を追って発展した。日本はフィリピンにとってアメリカに次ぐ第2位の貿易相手国となっており、トップクラスの投資国、最大の援助供与国でもある。

 また、在日フィリピン人は約19万人(2005。外国人登録者数)に達し、フィリピン人出稼ぎ者や「花嫁」が日本各地にみられたり、フィリピンへの観光客や派遣社員も多い。戦前フィリピンに在住した日本人の子孫の訪日も実現した。しかし、第二次世界大戦期に日本がフィリピン人に与えた多大の苦痛に対しては、いまだ償い残されたものも少なくない。

[高橋 彰]

『浅野幸穂著『フィリピン――マルコスからアキノへ』(1991・アジア経済研究所)』『榊原芳雄著『フィリピン経済入門』(1994・日本評論社)』『綾部恒雄他編『もっと知りたいフィリピン』(1995・弘文堂)』『池端雪浦著『近現代日本・フィリピン関係史』(2004・岩波書店)』『川中豪編『ポスト・エドサ期のフィリピン』(2005・アジア経済研究所)』『鈴木静夫著『物語フィリピンの歴史』(中公新書)』


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百科事典マイペディア 「フィリピン」の意味・わかりやすい解説

フィリピン

◎正式名称−フィリピン共和国Republika ng Pilipinas/Republic of the Philippines。◎面積−30万76km2。◎人口−9234万人(2010)。◎首都−マニラManila(165万人,2010)。◎住民−大部分はマレー系のセブアーノ,タガログ,イロカノ,ビコルなど。◎宗教−キリスト教93%(カトリック85%,フィリピン独立教会4%),イスラムなど。◎言語−ピリピーノ(国語,公用語),タガログ語30%,セブアーノ語24%,イロカノ語のほか英語(公用語)も広く使用される。◎通貨−フィリピン・ペソPhilippine Peso。◎元首−大統領,ベニグノ・アキノ 3世Benigno S. AQUINO III(1960年生れ,2010年5月選出,任期6年)。◎憲法−1987年2月制定。◎国会−二院制。上院(定員24,任期6年),下院(定員286,任期3年)。(2015)◎GDP−1669億ドル(2008)。◎1人当りGNP−1470ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−37.7%(2003)。◎平均寿命−男69.4歳,女73.9歳(2007)。◎乳児死亡率−23‰(2010)。◎識字率−94%(2008)。    *    *東南アジア,フィリピン群島を占める共和国。ルソンミンダナオの2大島をはじめ,サマールレイテマスバテボホールセブネグロスパナイミンドロパラワンなどの主要島のほか,合計7000以上の島々からなる。群島はもとアジア大陸と陸続きだったのが地殻の変動により分離,沈水したもので,全体的に山がちである。環太平洋火山帯に属するタール,マヨンなど多くの火山があり,しばしば爆発する。東部にフィリピン海溝がある。熱帯季節風気候で高温多湿。マレー系(ビサヤタガログイロカノなど),ネグリト人,ヨーロッパ人と先住民の混血が多い。キリスト教徒(主としてカトリック)が住民の90%を占めるが,イスラム教徒(モロ),伝統宗教をもつ種族もある。〔経済・産業〕 住民の約40%が農漁業に依存し,米,サトウキビ,トウモロコシ,コプラ,マニラ麻,タバコなどを産する。マホガニー,ラワン材も重要な輸出品。金,銀,銅,クロム,マンガンなどの鉱産資源に富む。工業は食品,セメント,製糖,製材,繊維などで,近年は電子部品の生産も盛んである。〔歴史〕 1521年マゼランが来航,スペイン植民地となり,1571年マニラが主都と定められた。マニラとメキシコのアカプルコとを結ぶガレオン船貿易では,中国産の絹織物や陶磁器,インド産の綿織物,メキシコ産の銀などが太平洋を渡った。1898年米西戦争の結果,フィリピンは米国に譲渡された。19世紀後半にリサールアギナルドらの独立運動があったが成功せず,1935年形式的な独立が認められた。第2次大戦中の1942年―1944年日本軍が占領,1946年正式に独立した。〔政治〕 1965年大統領に就任したマルコスは独裁体制を敷いたが,1986年民衆の反マルコス運動により国外脱出を余儀なくされ,代わってコラソン・アキノ(1983年に暗殺された野党リーダー,ベニグノ・アキノ・ジュニアの未亡人)が新大統領に就任し,民主化に努めた。1992年の大統領選ではアキノ政権で国防相をつとめたラモスが当選した。この間,マルコス政権期からの新人民軍の活動や南部のモロ民族解放戦線(MNLF)の分離独立運動が続いたが,ラモス政権下で鎮静化に向かい,1998年エストラダ大統領に交代した。しかし,政権の腐敗が露呈して大統領は辞任,2001年アロヨ副大統領(マカパガル元大統領の娘)が代わって就任したものの,選挙不正疑惑や汚職による退陣要求で政情は安定せずに推移した。南部地域では,イスラム復興をめざす急進派アブ・サヤフ・グループ(ASG)が活動を活発化させている。2010年5月の大統領選挙で,上院議員でコラソン・アキノの長男,ベニグノ・アキノ3世が,対立候補に圧倒的な差をつけて大勝,大統領に選出された。ベニグノ・アキノ3世大統領は,前政権による汚職・腐敗の撲滅と,ミンダナオ和平及び治安の強化を政権の重要課題とし,それぞれの課題の実施に努めて経済成長を軌道に乗せた。2014年3月,南部ミンダナオ島の反政府武装勢力モロ・イスラム解放戦線と包括和平合意書に調印,同島で40年以上に渡って続いた武力紛争に終結の見通しをつけた。また,南シナ海・南沙群島の領有をめぐってしばしば中国と鋭い緊張状態が生まれている。2004年,日本とのFTA(自由貿易協定)締結で基本合意した。2013年,台風30号の直撃により広範囲で高潮が発生,甚大な被害が出た。
→関連項目経済連携協定東南アジアビガンマレー[諸島]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フィリピン」の意味・わかりやすい解説

フィリピン
Philippines

正式名称 フィリピン共和国 Republikañg Pilipinas。
面積 30万km2
人口 1億1110万9000(2021推計)。
首都 マニラ

アジア大陸の南東方,南シナ海太平洋の間にある 7000以上の島からなる国。おもな島は北部のルソン島と南部のミンダナオ島で,その間にビサヤ諸島があり,サマル島ネグロス島パナイ島レイテ島セブ島ボホル島マスバテ島の 7島が大きい。ほかにミンドロ島パラワン島などがある。多様な地殻運動で形成されたうえに環太平洋造山帯に属し,地形は複雑で多くの火山がある。熱帯季節風気候に属し,5~10月が雨季,11月~2月が乾季で,南シナ海に面する西海岸で顕著。6~12月は台風の襲来が多い。乾季は過ごしやすいが,セブ島の諸都市,ダバオ,マニラなどでは気温が 38℃にまで達する。農業では,主食の米,トウモロコシ,輸出用のサトウキビ,コプラマニラアサバナナタバコなどを産する。漁業が広く行なわれるが,自給用の小規模なものが多い。工業では電子機器の製造や製糖など食品加工,繊維などが主。主要輸出品は電子機器や機械類の部品,食料品や衣類など。住民は大部分がマレー系で,80種近くの言語集団に分かれる。住民の 3分の1が使用する,タガログ語を基本としたフィリピノ語と英語が公用語。長くスペインの植民地であったため,人口の約 90%がキリスト教のカトリック信者。大土地所有制度が残存し,貧富の差が大きい。南部ではモロ族と呼ばれるイスラム教徒が分離独立運動を続けている(→モロ民族解放戦線)。東南アジア諸国連合 ASEAN原加盟国。(→フィリピン史

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「フィリピン」の解説

フィリピン
Philippines

東南アジアにある7100あまりの島々からなる共和国。首都メトロ・マニラ。北部・中部のルソン島やビサヤ諸島では,1521年のマゼラン隊来航時に自然集落を基本とする首長制社会を形成していた。一方,南部のスールー諸島やミンダナオ島では,イスラームを受け入れ王国が成立しつつあった。71年にマニラを根拠地としたスペインは,カトリック布教と植民地化を一体とし,教区(町)を基本とする社会を形成した。1834年のマニラ開港後,経済開発に伴って地主などの有産階級が誕生し,知識人層のなかに植民支配に疑問をいだく者が現れた。96年に勃発したフィリピン革命は,階級間格差と地域差を克服できず挫折し,フィリピンは98年にアメリカ‐スペイン戦争を契機に介入したアメリカに譲渡された。フィリピン‐アメリカ戦争でもエリート層が懐柔され,1902年に平定宣言が出された。アメリカ植民統治下では,公教育が普及し,自由貿易体制下でアメリカに従属する経済構造が確立された。42~45年の日本の占領は,物心両面で荒廃させ,強い反日感情を残した。さらに,46年の独立後のアメリカへの従属を強化した。86年の2月政変は民主制を内外にアピールしたが,エリート中心で依然貧富の差は激しい。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「フィリピン」の解説

フィリピン

南西太平洋と南シナ海の間にあるフィリピン諸島からなる国家。漢字表記は比律賓。16世紀後半からスペインの植民地となる。19世紀末にアギナルドらのフィリピン革命がおきたが,米西戦争の結果アメリカによる植民地支配が続いた。この間,日本とは16世紀末からキリスト教布教,南蛮・朱印船貿易などを通じた交渉がもたれ,マニラ近郊に日本町が栄えたが鎖国で断絶した。フィリピン革命時の武器援助計画(布引(ぬのびき)丸事件)などもあったが,関係を深めたのは20世紀からで,ベンゲット道路工事の契約移民やアバカ(マニラ麻)農園などが顕著な例である。太平洋戦争開戦の翌1942年(昭和17)1月,日本軍はマニラを占領,軍政を施行。バターン攻略作戦による捕虜虐待の「死の行進」も生じた。フクバラハップらの反日ゲリラ運動に苦しめられ,日本は43年10月ラウレル大統領のフィリピン共和国を樹立したが,アメリカのフィリピン奪回作戦で敗退。戦後,再び共和国として独立したが,内戦がつづき,マルコス独裁政権などを経て政情不安は解消せず。日本が甚大な損害を与えた賠償として,56年日比賠償協定が調印され,同時に日比平和条約も発効したが,友好通商航海条約は73年まで批准されなかった。67年発足のASEAN原加盟国。正式国名はフィリピン共和国。首都マニラ。

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旺文社世界史事典 三訂版 「フィリピン」の解説

フィリピン
Philippines

アジア大陸南東海上にある大小7000余の島じまからなる共和国。首都マニラ
1521年スペインのマゼラン探検隊が寄港し,42年同国皇太子フェリペ(フェリペ2世)の名にちなんで,フィリピンと命名された。以後3世紀にわたり同国の植民地で,マニラはメキシコのアカプルコと結ぶアカプルコ貿易(ガレオン船貿易)によって繁栄した。19世紀末にはホセ=リサールやアギナルドの独立運動が起こったが,1898年米西戦争の結果,アメリカが領有権を獲得し,翌年成立したマロロス共和国もアメリカ−フィリピン戦争によって独立を奪われた。太平洋戦争中は一時日本が占領したが,1946年に独立し,共和国となった。以後アメリカの経済支援を受けながら反共基地としての役割を果たした。また,1972年に戒厳令を布告してから独裁的政治を行っていたマルコス大統領を86年に追放して,コラソン=アキノが大統領に就任。1987年には新憲法が制定され,徐々に民主化が進み,1992年にはラモスが大統領に就任した。1998年の選挙でエストラダが大統領の座に就いた。

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世界大百科事典(旧版)内のフィリピンの言及

【東南アジア】より

…アジアの南東部を指す。西からミャンマー,タイ,ラオス,カンボジア,ベトナムの5ヵ国が東南アジアの大陸部を形成し,マレーシア,シンガポール,インドネシア,ブルネイ,フィリピンの5ヵ国が東南アジアの島嶼部を形づくっている。かつて〈南洋〉ないし〈南方〉と称していた地域を,〈東南アジア〉と呼ぶようになったのは比較的新しく,太平洋戦争後のことである。…

※「フィリピン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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