目次 自然 住民 社会 歴史 バランガイ社会 スペインの支配 フィリピン革命 アメリカの支配 日本軍政 共和国の試練 政治 マルコス時代 〈ピープル・パワー革命〉 外交 経済・産業 文化 音楽,舞踊 基本情報 正式名称 =フィリピン共和国 Republic of the Philippines 面積 =30万km2 人口 (2010)=9401万人 首都 =マニラManila(日本との時差=-1時間) 主要言語 =ピリピーノ,英語,各地方語 通貨 =フィリピン・ペソPhilippine Peso
アジア大陸の南東方,台湾とボルネオ,スラウェシ島 の間の西太平洋上にある島嶼国家。国土は大小合わせて7100といわれる島々からなるが,うち3km2 以上の島は500にも満たず,大多数は無名の小島,サンゴ礁島にすぎない。主要な島はルソン,ミンダナオの2大島,ビサヤ諸島の7島(サマール,レイテ,マスバテ,ボホール,セブ,ネグロス,パナイ),それにミンドロ,パラワンの計11島で,これだけで全国土面積の92.5%に達し,その人口は全人口の96%を占める。
自然 フィリピン群島 は基本的に第三紀,第四紀の褶曲運動と火山運動により形成されたと考えられるが,その骨格形成には,ルソン島のカラバリョ山脈南西の急崖から東岸のディンガラン湾に抜け,ポリリョ海峡,ラモン湾,ラガイ湾,マスバテ島北東部を経てミンダナオ島 のアグサン渓谷に達するフィリピン断層線が大きな作用を及ぼした。なお,構造線としては北北西~南南東と北北東~南南西の2方向が認められる。ミンダナオ島中央高地南部には群島最高峰の活火山アポ山(2954m)がそびえ,ルソン島南部からビコル半島にかけての火山地帯には二重カルデラで有名なタール湖,世界的なコニーデで知られるマヨン山(2417m)がある。またルソン島のカガヤン谷,中部ルソン平野,ミンダナオ島のコタバト平野,ブキドノン台地,パナイ島のイロイロ平野,ネグロス島西海岸平野などが重要な農業地帯を形成する。
気候的には熱帯モンスーン区に属し,多くの地域で乾季と雨季の明瞭な交替が認められる。もっとも降雨期を支配するのは地形,特に山脈との位置関係で,その東側では北東モンスーンの影響を受けて12月から翌年2月に多雨期が現れるのに対し,西側では南西モンスーンにより6~11月に降雨を見る。前者が群島東岸を代表する気候であり,後者が西岸型である。このほか,山脈や島にはさまれた地域に寡雨地帯が現れ(カガヤン谷,中部ビサヤなど),南部フィリピンの低緯度地帯では年中平均した降水をもつ赤道モンスーン型の気候となる(ミンダナオ島南部)。群島を襲う台風は年平均19個といわれるが,この影響を受けるのはビサヤ諸島以北で,特に東岸部で毎年大きな被害をみる。
住民 フィリピンの住民構成はきわめて複雑にみえるが,人種的には南方モンゴロイドといわれる新マレー系人種を中心に,少数民族としてコーカソイド とモンゴロイド両方の形質をもつ旧マレー系人種,ネグリト,それに中国人,ヨーロッパ人が混じっているにすぎない。分離独立を叫んで今日激しく中央政府と対立しているフィリピン人イスラム教徒 のモロ族にしても,人種的にはタガログ,セブアーノと同じ新マレー系である。民族構成を複雑にしているのは,人種ではなく宗教であり言語である。
フィリピン住民の実に93%がキリスト教を信じる。これはスペインの遺産であって,各町に教会が置かれ,人々はここで毎週日曜日にミサをあげ,洗礼,婚礼などの人生の主要儀礼を行う。しかし,同じキリスト教徒でもそこにはローマ・カトリック(85%),プロテスタント (3%),フィリピン独立教会 (4%),イグレシア・ニ・クリスト (キリストの教会,1%)などの派がみられ,別々の教会で別々の儀礼を執り行う。残る7%の人口のうち4~5%がイスラム教徒で,南部を中心に約250万人を数える。彼らはマラッカ王国最盛期に教化され,16世紀後半以降フィリピンを植民地化したスペインに対し,頑強にその支配を拒んだ唯一のフィリピン人であった。このほかの2%はそれぞれ土着の宗教を信仰する人たちである。
フィリピン諸語は,言語学的にはいずれもアウストロネシア(マラヨ・ポリネシア)語族に属し,マレー語,ジャワ語などとも多くの共通点をもつ。とはいえ,フィリピン人はこれらフィリピン諸語を相互に全然理解できず,一方が他方の言語修得に最低半年を要するほどである。その数は134種とも186種ともいわれるが,主要なものだけでもタガログ(1995年センサスによると全人口の29.3%が母語とする),セブアーノ(21.2%),イロカノ(9.3%)など8種類を数える。このように多種の言語の存在は,住民自らの力による民族統一の歴史を欠いたことによることはいうまでもない。1939年タガログ語 を国語の基礎にすることが制定されたが,英語がそのまま公用語,授業用語として残ったために国語の普及は大いに遅れ(1959年に国語はピリピーノPilipinoと命名された),70年の普及率はようやく55%にすぎなかった。70年代に入ってからのナショナリズム 高揚もあって,最近では普及がかなり進んだとみられる。 執筆者:梅原 弘光
社会 フィリピンの宗教別人口比は[住民]の項で述べられたとおりであるが,それを大別すると,キリスト教系の宗教,イスラム,その他に三分される。外来の世界宗教が到来する以前のフィリピン住民の宗教は,精霊信仰(アニミズム)であった。今日でも山岳地帯に住む少数民族は精霊信仰をもっている。世界宗教の中で最初に伝来したのはイスラムで,14世紀後半ころから南部を中心に広まり,現在ではスールー諸島 ,ミンダナオ島西・南部の平野部および海岸地帯,パラワン島南部の海岸地帯に広まっている。カトリシズム は16世紀後半にスペインの植民地支配とともにもたらされ,全人口の8割以上を占める宗教となった。フィリピン独立教会は,フィリピン革命期に,カトリック教会 の人種差別に抵抗して生まれた民族教会で,1902年に正式に発足した。信徒は北イロコス州を中心に全国に散在している。プロテスタンティズム は,アメリカの植民地支配とともに到来した。アメリカ文化はフィリピン社会にきわめて大きな影響を及ぼしたが,プロテスタンティズムはそれほど浸透しなかった。アメリカ体制期に入って,宗教の自由が認められるようになって以降,さまざまな新宗教が登場した。その中で最大のものが,イグレシア・ニ・クリストである。フィリピンを訪れると,全国いたるところの町々で,高い尖塔をもつ白亜のものものしい教会に出会う。これがイグレシア・ニ・クリストの教会である。この他に注目される新宗教は,一般にリサリスタRizalistaと総称される諸宗教組織である。リサリスタの特徴は,民族英雄リサール がやがて救世主として人々を救いに来てくれるという信仰にある。
フィリピンの宗教は多様であるが,おおかたのフィリピン人の社会生活は,カトリック教会の教会暦を中心に展開されている。とくにたいせつな年中行事は,クリスマスと四旬節の諸行事,それに各町の守護聖人を祝うフィエスタ,そして万聖節,万霊節である。これらの年中行事には,家族や親戚が一堂に会して相互の連帯を深め合う。現在フィリピンの民衆が実行しているカトリシズムは,かつての精霊信仰時代の儀礼や信仰を多く包摂していて,公式のカトリシズムからは相当に逸脱している。そのような意味で,フィリピン民衆のカトリシズムはフォーク(民俗的)・カトリシズムと呼ぶことができるが,こうした現象は,南部の人々が信仰しているイスラムについても,同様に指摘することができる。
フィリピン社会で最もたいせつな社会的紐帯は家族血縁関係である。あらゆる社会的関係は家族血縁関係を中心にして組織され,拡大強化されるといっても過言ではない。家族の形態は夫婦と子どもからなる核家族が一般で,親族関係は双系制を基本とする。しかし,現実に機能している家族や親族の観念は,擬制的親族関係や姻族が加わって,もっと複雑で柔軟な広がりをもっている。擬制的血縁関係として代表的なものは,儀礼兄弟制度とコンパドラスゴ (儀礼的親子関係)である。フィリピン企業の多くが親族会社の形態をとり,社会のあらゆる場で縁者びいき(ネポティズム )が盛んなのも,こうした家族血縁関係を反映している。
フィリピンでは教育の価値が広く認められていて,教育制度も進んでいる。現在の学制は初等教育6年(初等科4年と中間課程2年),中等教育4年,大学4年となっていて,最初の6年間が義務教育である。初等・中等教育の生徒登録率は9割に近い。しかし,学校教育における最大の問題は言葉である。小学校1,2学年のときは地方語で教育を受け,同時に国語ピリピーノを習いはじめる。そして3学年以上になると英語とピリピーノが教育用語になり,上級になるに従って英語の占める比重が大きくなる。中等教育機関および大学ではほとんど英語で授業が行われている。教育を大衆化し,質的に向上させるためには,教育用語問題の解決が最大の課題である。
歴史 バランガイ社会 フィリピンの歴史が,文献史料に基づいて本格的に明らかになるのは,16世紀後半,この地域がスペインの植民地支配下に置かれて以後のことである。それ以前の時代については,中国の史書に断片的な記録が残されているだけで詳しいことはわからない。中国の記録で最も古いものは,13世紀初めに書かれた趙汝适(ちようじよかつ)の《諸蕃志》で,同書にはフィリピン群島に比定される麻逸 国,三嶼,蒲哩嚕の産物と風俗が記されている。しかし,これらの地名がフィリピン群島のどこに当たるかは,いまだに確定していない。
元代末の14世紀半ばに著された,汪大淵の《島夷誌略》には,あらたに麻里嚕(マニラ),蘇禄(スールー)などの地名が登場する。フィリピン群島で最初に統一的な政治支配が成立したのは,この蘇禄,すなわち,スールー諸島の中心地,ホロ島においてであった。ホロ島では15世紀の中ごろに,スルタンのアブー・バクル が支配するスールー王国 が成立した。《明史》によれば,スールー王国は中国の明朝と一時期頻繁に交流した。しかしホロ島以外の地域では統一的な政治支配はみられず,住民はバランガイ と呼ばれる小規模な集団を形成して生活していた。バランガイの規模は通常30から100程度の単位家族から成っていたが,交通の要衝,例えばルソン島のマニラ湾沿岸やリンガエン湾沿岸,カガヤン河口付近などには,2000人以上,ときには1万人近い大規模なバランガイもみられた。
スペインの支配 1565年よりフィリピン侵略を開始したスペインは,71年にマニラをフィリピン支配の主都と定め,以後10年ほどの間に,ルソン島ならびにビサヤ諸島の平地部をその支配下に置いた。そして17世紀前半までに,州(アルカルディーア),町(プエブロ),村(バリオまたはバランガイ)の3段階から成る地方行政制度を設立した。植民地行政の中でスペイン人が担当したのは,マニラの中央政庁と州政府までで,それ以下の地方行政はフィリピン人の手にゆだねられた。これらの町村レベルの原住民役人を総称してプリンシパリーア と呼び,かつてのバランガイ社会の首長層がその任に当てられた。スペインは政教一致の支配体制をとったので,植民地の住民はすべてカトリックへの改宗を強制された。行政単位の町は,教会組織の小教区と完全に重なっていて,町役場と教会と広場が,町の中心部を形成するシンボルであった。教区司祭は通常,スペイン人修道会士が任命されたので,彼は町以下の地方社会に存在する唯一のスペイン人として,住民の精神生活のみならず,統治行政面でも絶大な権限をふるった。
スペイン統治下で住民の経済生活は長らく停滞的であった。スペイン政庁は住民に人頭税(トリブート ),強制労働(ポーロ)などを課して,生産の余剰を収奪する一方,移動の自由や融資活動などに制限を加えて,住民の交易活動を抑圧した。城壁都市マニラに集住したスペイン人の消費生活を支えたのは,パリアン などに住む中国系の商人と職人であった。中国系商人はマニラとメキシコのアカプルコを結ぶガレオン船 貿易の集貨業務をも一手に引き受けて,フィリピン経営のなくてはならぬ存在となった。
スペインはルソン島とビサヤ諸島の平地部を征服したのち,未征服の山地部と南部の征服を企てた。しかし,両地域はスペイン体制の末期まで,ついにスペインの進出を許さなかった。とくに南部のイスラム地域では,ホロ島をはじめとして,ミンダナオ島のコタバト地方 やラナオ地方などにモロ族 による強力なスルタン国家が成立していたので,スペイン政庁はこれらイスラム地域と3世紀近くにわたって,〈モロ戦争〉と呼ばれる熾烈な戦いを繰り返した。
18世紀後半に入って,スペイン政庁はフィリピンの経済開発を模索するようになった。1782年に開始されたタバコの強制栽培制度,85年の王立フィリピン会社 の設立はその一環であった。しかし,住民経済を自給自足経済 から商品作物農業へと一大転換させたのは,1834年のマニラ開港に伴う外国貿易であった。これ以後フィリピンの外国貿易は,イギリスとアメリカを主要な相手国として発展した。両国から輸入される綿織物や機械製品に対して,フィリピンからは砂糖,マニラ麻 ,タバコなどの一次産品が輸出された。これらの輸出用商品作物が特定の地域で特化されるに伴って,米,トウモロコシ など,その他の農産物の商品化も進展し,フィリピン群島の広範な地域に商品農業が導入された。外国貿易を契機として,国内の流通経済も盛んになった。この分野を担ったのは,中国系メスティソ(混血)であった。生産現場の農村では,商品経済の進展に伴って高利貸が横行し,担保流れで土地を失う農民が増える一方,高利貸や仲買商人らによる土地集積が進行した。1830年代以降はフロンティア の開発も盛んで,カガヤン谷,中部ルソンの辺境地帯,タヤバスやバタンガスの低地帯,ビサヤ諸島のネグロス島,パナイ島北・中部,セブ島などが,イロカノ族,タガログ族,セブアーノ族らによって開拓された。こうした一連の経済発展の中から,地主,仲買商人などの新興の有産階級が誕生し,植民地支配に批判を抱くようになった。
フィリピン革命 植民地支配に対する抵抗運動は,スペイン進出の当初から数多く展開された。しかし,それらの抵抗運動の中で,人種差別の不当性を初めて明確に主張したのは,1840年代末に始まるフィリピン人神父の権利擁護運動であった。この運動は72年のゴンブルサ事件 で大弾圧をうけて潰滅したが,この事件の衝撃で目ざめた民族意識は,やがて1880年代にプロパガンダ運動 と呼ばれる改革運動を生み出した。プロパガンダ運動の担い手は,マニラの中等教育機関(コレヒオや師範学校など)やサント・トマス大学 ,さらには遠くヨーロッパ諸国へ遊学ないしは留学した,新興有産階級の子弟であった。彼らは自国の主都マニラとスペインの首都マドリードとを主要舞台にして,フィリピン支配の改革を求める言論活動を展開した。この運動の中で,リサールやデル・ピラール らの著名な知識人が輩出し,機関紙《ソリダリダッド 》が発行された。プロパガンダ運動はフィリピン社会に,初めて全民族を統一する民族思想を創り出し,植民地支配を一つの体制悪として総合的に批判する理論をつくり出したが,現実の改革要求については何一つ実現することができなかった。
96年8月,ルソン島のタガログ8州を主要舞台にして,フィリピン革命が開始された。革命を主導したのは,秘密結社カティプーナン であった。しかし,革命開始後まもなくして,革命軍内部には,地域主義と階級の違いを主要因とする,深刻な指導権争いが生じ,革命のリーダーシップ はカティプーナン総裁ボニファシオ の手からカビテ州プリンシパリーア階層の先頭に立つアギナルド の手に移った。アギナルド指導部は97年12月スペインと和約を結んで,革命終息をはかり,彼らは香港へ亡命した。しかし,革命戦線はむしろこの頃から全国的に拡大しはじめた。折しも,98年4月,革命軍支援の名目でアメリカが事態に介入し,亡命中のアギナルドを帰国させて,再度革命政府を樹立させた。しかし,アメリカの真意がフィリピン占領にあることを知った革命軍は,独力でフィリピン全土の解放を目ざした。
98年6月,革命政府はM.ポンセ ,F.リチャウコの2人を日本へ派遣して,武器,弾薬の調達と日本の支援獲得に当たらせた。日本の軍部は当初より,フィリピン革命へ介入する機会をうかがっていたが,日本政府はアメリカのフィリピン介入に対して局外中立の立場を表明していたので,日本軍部から武器を購入しようとするポンセらの交渉は難航した。しかし,ポンセはその後,日本滞在中の孫文の紹介で宮崎滔天,犬養毅らの知遇を受け,これら日本人アジア主義者の協力で,陸軍参謀本部 から中古の村田銃などの払下げを受けた。この間にアメリカは,98年12月,スペインとの間にパリ条約を結んで,フィリピンの領有権を獲得した。他方,革命政府は99年1月,マロロス憲法 を発布してマロロス共和国 (第1次フィリピン共和国)を樹立した。その結果,99年2月,革命軍とアメリカ軍との間で,フィリピン・アメリカ戦争 が勃発するにいたった。日本陸軍から払い下げられた武器・弾薬は99年7月,布引丸に積載されて長崎港を出航したが,途中,上海沖で台風に遭って沈没し,鶴首待望する革命軍の手には届かなかった(布引丸事件)。日本陸軍はまた,武器払下げと交換に,日本軍人を革命軍に招聘するよう要請し,原禎中佐以下5人の軍籍を離脱した〈軍人〉と民間人平山周が別途フィリピンへ渡った。しかし,彼らも意思の疎通をはかれなかったことなどから,なすところなく,短期間でフィリピンを引き揚げた。軍備に劣る革命軍は執拗なゲリラ戦を展開したが,アメリカの近代兵器の前に敗北した。
アメリカの支配 アメリカは1902年より本格的なフィリピン統治を開始した。軍事力に勝るアメリカは,スペインが征服することのできなかった山地部やイスラム地域にも侵略の歩を進めた。しかし,イスラム地域の抵抗は依然強力で,15年のカーペンター=キラム協定 まで戦闘が続いた。そして,この時点で初めて,フィリピン全土が一つの政府の下に置かれることになった。アメリカは,侵略戦争のさなかからすでに教育を植民地支配の柱に据えて,全国津々浦々に小学校を建設した。そして,小学校から大学まで,アメリカのカリキュラムに従って英語で授業が行われた。アメリカの統治は,当初,フィリピン委員会が立法府と行政府を兼ねるかたちで始まったが,07年に一院制のフィリピン議会 が開設され,さらに16年にはジョーンズ法 によって二院制議会が設立されたので,立法権は漸次フィリピン人の手に移った。また,行政府のフィリピン人化も1913-21年のハリソン総督の時代にほとんど実現された。アメリカはこのようなかたちで,アメリカ流民主主義を導入したが,それを享受したのは,フィリピン議会や地方政府の選挙人資格にもみられるように,男子の有産階級出身のエリートのみであった。
アメリカ体制期に入って,フィリピン経済は完全にアメリカに支配されるようになった。1909年に制定されたペイン=オルドリッチ関税法と,その一部を修正した13年の関税法で,フィリピンとアメリカの間には完全な自由貿易が成立した。その結果,フィリピンの外国貿易は輸出入ともに,全面的にアメリカ市場に依存するようになった。この貿易関係を軸に,アメリカ資本は輸出農産物加工部門,貿易・販売会社,鉱業,林業,電力事業などに進出した。
29年に始まった世界恐慌によって,アメリカ国内では,フィリピン独立の主張が高まった。国内に大規模な農業部門を抱えるアメリカでは,フィリピンの植民地化に反対する声が当初から強かったが,大恐慌を迎えて,その主張が議会の大勢を占めるにいたったのである。その結果,34年にタイディングズ=マクダフィー法が制定され,翌35年11月15日,独立準備政府たるフィリピン・コモンウェルス が発足した。この頃,フィリピン社会は激動のさなかにあった。自由貿易体制と地主制度の下で窮乏化を加えていた農民が,1920年代以来全国各地でメシア運動を繰り広げ,中部ルソンや南タガログ地域では,組織化された大規模な農民反乱が相次いだ。こうした窮状を解決すべく,29年にはフィリピン社会党が,また30年にはフィリピン共産党 が結成された。
日本軍政 1941年12月8日,太平洋戦争の勃発と同時に,フィリピンは日本軍の侵略を被った。42年5月のコレヒドール島陥落によって,フィリピン全土が日本軍の支配下に置かれた。日本軍は,42年1月より占領地に対して軍政を実施したが,この軍政はまったくの暴力的抑圧体制であった。言論統制のため,軍の認める新聞,ラジオ以外は,すべての報道機関が閉鎖された。政治組織もすべて解散させられ,かわってフィリピン版大政翼賛会〈カリバピKALIBAPI〉(新生フィリピン奉仕団の略称)が組織された。町内には隣組制度が組織され,治安維持のための相互監視と連帯責任の組織として,あるいはまた,配給制度,勤労奉仕のための組織として用いられた。日本軍はまた,婦女子の凌辱,物資の掠奪,残忍なゲリラ狩り,びんたの濫用で住民の怒りと怨恨を買った。このため,43年に入ると人心が離反し,反日ゲリラ運動が激化して,軍政の実行が危ぶまれるまでになった。
こうした状況を緩和するために,43年10月,日本軍はラウレル を大統領とするフィリピン共和国の樹立に踏み切った。しかし,それはまったくの傀儡(かいらい)共和国だったので,反日ゲリラ活動はいっそう激化した。全国各地で結成されたおびただしい数のゲリラ組織は,その大半が連合軍西南太平洋司令部の指揮下に属する〈ユサッフェ・ゲリラ〉であったが,中部ルソンに根拠地を置いたフクバラハップ は,それらとは独立に独自の目標,すなわち,日本軍の追放と地主制打倒の二つの目標を掲げて戦った。44年10月,アメリカ軍のレイテ島上陸を皮切りに,アメリカのフィリピン再占領作戦が猛烈な勢いで展開され,45年9月3日,日本軍は完全降服した。
共和国の試練 日本軍敗退後の飢えと混乱の中で,46年7月4日,フィリピン共和国が独立した。初代大統領にはリベラル党 のロハス が就任した。しかしこの独立は,アメリカに全面的に従属した名目だけの独立であった。共和国発足の日に締結されたフィリピン通商法 で,フィリピンはその後も28年間,アメリカの経済的支配下に置かれることになった。47年には軍事基地協定,軍事援助協定の二つの軍事協定がアメリカとの間に結ばれた。軍事基地協定によってアメリカは,フィリピンに存在する23の軍事基地を99年間にわたって使用できることになった。51年にはさらに,両国間で相互防衛条約が結ばれた。
政府のこうした対米従属政策と地主体制温存政策に反対して,中部ルソンでは,1946年から50年にかけて,フクバラハップの激しい武力闘争が展開された。土地問題は今や共和国政府の最も深刻な社会不安要因の一つとなった。55年にマグサイサイ 政権下で制定された土地改革法,63年にマカパガル 政権下で制定された農地改革法は,この問題に答えようとしたものであるが,地主階級の支配する議会で法案は骨抜きにされ,ほとんど実効をみなかった。
1950年代には体制内エリートの中から反米ナショナリズムが台頭し,フィリピン通商法ならびに軍事基地協定の改正が行われた。反米運動は60年代に入って,学生や一般知識人,労働者などの間にも広がり,60年代後半には〈文化革命〉あるいは〈第2次プロパガンダ運動〉と呼ばれる,戦闘的な文化運動に発展した。おりから地下では,フィリピン共産党が再建され(1968年12月),軍事組織である新人民軍も結成された(1969年3月)。こうした高揚する反体制運動と,インフレ,失業問題など山積する経済不安の中で,72年9月,マルコス 大統領によって戒厳令が施行され,フィリピン現代史は新しい局面を迎えた。 執筆者:池端 雪浦
政治 1946年の独立以来フィリピンは,1935年憲法にもとづくアメリカ型議会民主制をとり,ナショナリスタ党 ,リベラル党の二大政党がほとんど交互に政権を交替していた。この安定状態を破ったのはマルコス長期政権(1965-86)の出現である。
マルコス時代 共和国史上初の再選を果たしたマルコスFerdinand Marcosは,1972年9月戒厳令を布告,議院内閣制を規定した1973年憲法の公布を強行した。ただし新憲法にもとづく暫定国民議会は召集停止にしたまま旧憲法下の大統領権限は保持した。結局,81年1月戒厳令を解除したときには,憲法を修正してフランス型の新大統領制を成立させ,そのもとで大統領に選出された。
1970年代初頭における強権政治への暗転にはそれを招いた客観的な背景がある。そもそも1935年憲法下の議会民主政治の実態は,二大政党に集まる伝統的な各地有力家族による支配ということであった。両党間に政治基盤や政綱の上で差はなく,ともに現状維持を利益としていた。経済開発の促進,土地改革はじめ社会改革の推進,他方アメリカへの過度の依存からの脱却という焦眉の課題への対応力を欠いており,その点で〈寡頭支配の打破〉〈新社会の建設〉の旗印を掲げたマルコスは,フィリピン国軍 やテクノクラート ,取り巻きビジネス・グループばかりか,広く国民大衆をたやすく惹きつけることができた。
しかし戒厳令初期には強権を背景に矢継ぎ早に展開された革新的政策も1970年代末には活力を失った。そのなかで第2次石油危機後の世界不況に加えて,83年8月のベニグノ・アキノ元上院議員暗殺事件に起因する政情不安が,深刻な経済危機を呼び起こした。アメリカはじめ国際的な批判が高まり,抑圧されてきた有力家族など反マルコス派は,人権擁護と民主主義を掲げるカトリック教会や多様化した市民運動とともに政権打倒運動を活発化させた。マルコスは事態の打開を大統領選挙の繰上げ実施に賭けた。
〈ピープル・パワー革命〉 1986年2月の大統領選挙は国際的注視を浴びた。混乱した開票経過のなかでマルコスの当選宣告が強行されたが,その直後,国軍改革派を背景にしたエンリレ国防相とラモス副参謀長が野党統一候補コラソン・アキノ(故アキノ議員夫人)Corazon Aquinoを擁して決起したことで様相は一変した。反乱派を教会が支援し市民大衆が厚い盾となって防衛するなかで,アメリカ政府が事態収拾の主導権をとり,マルコスをハワイに亡命させた。この経過は〈二月革命〉あるいは〈ピープル・パワー革命〉と呼ばれる。
アキノ大統領は就任後,〈暫定憲法〉を公布して立法権をひきつづき掌握し,任命した憲法制定委員会に新憲法起草を急がせた。1987年2月の国民投票で成立した新憲法は,アメリカ型大統領制,二院制議会など政治制度の上では1935年憲法体制への回帰であるが,大統領の権限の縮小,大統領・議員の任期制限(大統領は1期6年)などマルコス色の払拭と独裁再発防止の規定,国民の保護や基本的人権の保障の規定などピープル・パワーに配慮した側面も目立つ。
長期独裁政権,特にその末期の政治・経済の混乱の後を受けたアキノ政権の課題は,和平と和解,経済の再建,民主主義の復活であった。このうちわずかに達成されたのは,脱マルコス化と民主的政治過程の整備という制度面だけであった。共産系武装反乱との和平,国軍の旧悪追及を急ぐあまり,国軍改革派分子による4年間で7件のクーデタを招き,政情不安は続いた。国際的支援体制のもと始動していた経済回復も水を差されて頓挫した。
これらの課題を最終的に完成させたのは,1992年5月に新憲法下で選出された初の大統領フィデル・ラモスFidel Ramosである。ラモスは,就任するや武装反乱諸勢力への恩赦と共産党合法化の方針を表明,95年に国軍改革派との,96年にイスラムのモロ民族解放戦線 との和平にこぎつけた。共産系の民族民主戦線-新人民軍との長い交渉は妥結に至っていないが,共産勢力自体は93年に分裂し,勢力は著しく減退した。電力危機の克服など着実な経済運営と対外開放化政策を好感した外資の急流入により,94年以来経済も好転し,2000年に周辺諸国の水準に追いつくことを国家目標に掲げるに至っている。
新憲法の一つの柱,地方分権化は,1991年地方自治法に結実した。地方行政組織は1995年現在,76州,60特別市と1543郡,4万1908バランガイ(村)からなっている。76州は行政上16地方(コルディリェーラ,ムスリム・ミンダナオの2自治地方を含む)として括られることが多い。
外交 対米関係に過度に傾斜していた対外関係は,マルコス政権以来多角化を強めている。1974年のラウレル・ラングレー通商協定の満期失効は対米〈特殊関係〉脱却の第一歩であったが,軍事関係でも91年,上院はついに在フィリピンの米海空軍基地の存続を否決した。米軍は翌年11月撤退を完了し,米比間に残るのは1951年調印の相互防衛条約だけとなった。アメリカは経済関係では,往復の貿易額,直接投資残高において優位を保つが,日本に輸入額,年次投資額,とりわけ政府開発援助額で首位の座を譲っている。ただし近年の対外関係多角化の力点はアジア,特にASEANにおかれている。
米軍撤退は,国内治安主眼の貧弱な防衛力を対外防衛中心に再編する課題を提起した。1995年の国軍近代化法の制定により15ヵ年計画,当面は5ヵ年計画で兵力を10万人に縮小する一方,装備の近代化を急ぐ構えである。
経済・産業 1人当り国民総生産1050ドル(1995)は中所得国のうちでも低位に属し,またその伸びも世界有数の高い人口増加率(90年代の年平均2.3%)も災いして1985~94年の年平均1.7%と鈍い。しかも富の分配は,全世帯の上位10%が全所得の36%を手にし,全世帯の36%が絶対的貧困層に属する状態である(1994)。
労働人口の半数近くが従事する農業では,食糧作物である米・トウモロコシが全収穫面積1251万haの52%を占める。輸出作物ではココナッツの比重が同25%と高く,バナナ,砂糖キビ,コーヒー,アバカ(マニラ麻)と続く(1995)。1960年代後半以降の高収量品種の導入で米が一時自給状態となったが,80年代半ばから輸入がふたたび常態化している。懸案の土地改革は,マルコス政権,アキノ政権とも初期には大々的に取り上げたが,持続的な推進力に欠けた。とりわけ膨大な土地なし農業労働者の問題は深刻である。
工業では,独立後,輸入・為替管理,奨励的税制,割高の為替レートなど一連の保護政策が奏功して輸入代替工業化が進展し,1960年代初頭ではアジアをリードしていたが,その後は停滞的傾向を強めた。高関税や輸入規制など国内保護政策を維持した結果,雇用節約,国内需要依存,低生産性,資源浪費が体質化したのである。マルコス期に工業政策の転換が図られ,輸出多角化に若干の成果を見たが,政治的に既得権益に手がつけられず,保護主義は基本的に改まらなかった。やっと80年の危機に至って経済構造調整計画が始まり,課題は後続の政権に引き継がれた。ラモス政権になって,経済の自由化,規制緩和,公営企業の民営化などの効果が現れ,経済成長の加速化に寄与している。
サービス業は特に就業構造の上から注目される。都市での工業の雇用吸収力の弱さが,農村から排出された過剰労働力をサービス業に向かわせるのであるが,その実体は都市における各種雑業を形成する部分が多く,偽装された不完全就業と見られる。農村,都市を通じて雇用創出は最大の課題であるが,特記すべきことに全世界的に出稼労働者が展開し(1995年推計で海外在住の移民と出稼労働者計600万人),安全弁となっている。
1990年代に入り外国直接投資の急流入によって輸出の伸びと構成の変化が著しい。95年現在,輸出の77%が非在来の工業製品(半導体など電気電子製品が43%,衣料品が15%)であり,在来品は最大のココナッツ製品でも6%にすぎない。これは反面,中間財,資本財の輸入急増を招き貿易赤字を拡大させているが,出稼ぎ労働者を中心とした海外からの送金は94年に約60億ドルとも推定され,貿易赤字の大半を埋めている。 執筆者:浅野 幸穂
文化 フィリピン社会の歴史的形成過程を反映して,フィリピン文化は地域差に富んでいる。大別すると,カトリック文化圏,イスラム文化圏,山地少数民族文化圏に分けられるが,各文化圏の中でも文化領域によっては差異がある。しかしその一方,フィリピン群島全体に共通した文化があることも否定できない。ここでは,国民の大多数が属するカトリック文化圏を中心にみていくことにしよう。
フィリピンで早くから発達した文化様式の一つは,口承の歌と叙事詩であった。この伝統をうけて,スペイン体制期に入ると,パション をはじめとする宗教的内容の詩や,コリドkorido,アウィットawitなどの韻文形式の物語が盛んになった。バラグタス が書いた《フロランテとラウラ》(タガログ語。1838年作)は,アウィットの古典的名作である。スペインはまた,カトリシズムの宣教をかねて,コメディヤkomedya,モロモロ などと呼ばれる芝居の形式を普及させた。フィリピンで書かれた文学が盛んになったのは,19世紀末葉のプロパガンダ運動期に入ってからのことであった。スペイン語で長編小説を著したリサール やパテルノPedro A.Paterno(1858-1911)らが著名である。19世紀末葉にスペインから伝わったサルスエラ は,20世紀に入ってフィリピンのことばで盛んに演じられるようになり,1920~30年代に最盛期を迎えた。
サルスエラが衰退する頃から,アメリカ文学の影響をうけた英語の短編小説が盛んになった。英語文学が盛んになるに伴って,フィリピン諸語による文学は,未熟な文学として蔑視されるようになり,この傾向は1950年代ころまで続いた。しかし,その中で,L.K.サントス やA.V.エルナンデス らは,タガログ語で優れた社会派の小説や詩を著した。60年代後半から文化の民族化運動が盛んになり,ピリピーノ語作家や詩人が輩出するようになった。英語の現代作家の中では,ホアキンNick JoaquinやゴンサレスN.V.M.Gonzalezらが国際的にも知られている。
フィリピンで絵画芸術が本格的に始まったのは,19世紀末葉に2人の巨匠J.ルナ とイダルゴFelix Resurreccion Hidalgoが登場してからのことである。20世紀前半には風俗画が盛んで,この流れの中からF.アモルソロ が登場した。20世紀中ごろにいたって,共和国独立と歩調を合わせるように,フィリピン現代絵画時代が幕開けし,オカンポHernando R.Ocampo,フランシスコCarlos V.Francisco,ルースArturo Rogerio Luzらの多彩な才能が流派を競うようになった。また,この頃からようやく,彫刻芸術にも関心が寄せられるようになり,現在は,トレンティーノGuillermo Tolentino,アブエバNapoleon Abuevaの2人の巨匠が目ざましい活躍を示している。先述の文学と並んで,スペイン文化の影響を強力にうけたのは建築であった。かつてフィリピンには石造りの建造物はほとんどみられなかったが,スペインの植民地支配以後,アンティラン様式と呼ばれる石造りの家が上流階層に広まり,現在でもいたる所にその姿をとどめている。スペイン建築文化の粋が発揮されたのは教会建築であった。教会建築の多くは,現在でも,往時の荘厳なバロック様式を保っている。 執筆者:池端 雪浦
音楽,舞踊 混血とキリスト教化が顕著な中心部では,ヨーロッパ音楽をそのままの形で演奏したり,スペイン的色彩を残しながらも新しいフィリピン様式と呼べる音楽と舞踊をつくりあげている。たとえば〈ロンダヤrondalla〉という合奏形態は,ギター,マンドリン,フレット付きベースを伴奏に,ユニゾン,3度平行,パート合唱による親しみやすい旋律をうたい,社交ダンス的に着飾りパターン化したステップで踊る集いの場を支えている。さらに,マレー系の伝統であった〈ろうそく踊〉(ろうそくを立てた皿を手や頭にのせる)や竹踊〈ティンクリンtingkling〉(長い竹の棒をリズミカルに打ち合わせ,踊り手は足をはさまれないように規則正しいステップでアクロバット的に踊る)などが,西洋的にアレンジされて受け継がれている。伝統芸能が根強く生きているのは周辺地域においてである。ルソン島北部の山地民族(俗称イゴロット族)はインドシナとのつながりを暗示する平(たいら)ゴング(銅鑼)を大きさの異なる6個ないしその倍数で組み合わせ,1人が一つずつ担当し,構え方や手の使い方を微妙に変えて,音色の多様性を利用した独特のアンサンブルをつくりあげている。このアンサンブル形態は,搗奏竹筒,割れ竹,パンパイプス,竹筒琴の演奏に共通する構成原理をもっている。南部のミンダナオ島やスールー諸島ではゴングに突起がつき,旋律演奏が主眼となる点で北部と大きく異なり,むしろインドネシアのガムラン との関連が大きい。ゴングを横にねかせて枠の上に並べたクリンタンkulintangを中心とするアンサンブルは,5音音階 とコロトミック(コロトミーcolotomy音楽的句読法)な規則正しい時間分割を最大の特徴としている。フィリピンの代表的な楽器としては,このほかに口琴 (竹製のクビン,金属製のオンナ),舟形撥弦のクジャピ(カチャピ ),ノーズ・フルート ,割れ目太鼓,搗奏竹筒,鉢巻式歌口の笛などがある。声楽は北部の自由リズムとファルセット多用の合唱や語り的独唱,南部のイスラム教徒による装飾音の多い歌唱などに特徴がある。 執筆者:山口 修