日本歴史地名大系 「進脩館跡」の解説 進脩館跡しんしゆうかんあと 大分県:中津市中津城下片端町進脩館跡[現在地名]中津市中津 片端町中津藩の藩校。中津藩五代藩主奥平昌高は民政に注意を払った人でもあったが、藩政刷新のため藩士に文武の気風を奨励した。寛政八年(一七九六)当時中津藩で儒学を教授していた倉成龍渚と野本雪巌に命じ、片端(かたは)町に藩校を開学し、進脩館と称した(藩政時代の教育)。このとき「進脩館草創紀律」が定められた。この藩校は藩士やその子弟の教育を主目的とした学問所であったが、僧侶や神官の入学も許可された。朱子学と古義学がおもな教授内容であり、天保年間(一八三〇―四四)以降は、実学主義も台頭した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報