中津藩 (なかつはん)
豊前国下毛(しもげ)郡中津(現,大分県中津市)に藩庁を置いた譜代中藩。1587年(天正15)九州統一に成功した豊臣秀吉は,黒田孝高(よしたか)に豊前国京都(みやこ),仲津,築城(ついき),上毛(こうげ)(以上,福岡県)と宇佐,下毛(以上,大分県)の6郡,12万5000石(一説には15万石)を与え,中津藩が成立。1600年(慶長5)関ヶ原の戦ののち,細川忠興が豊前一国と豊後のうち国東・速見両郡の30万石(01年の検地実施後,内高は39万5995石)の領主として中津へ入封。02年からは小倉が本城となり,中津は当初嗣子忠利,のち隠居三斎(忠興)の居城となる。32年(寛永9)小笠原長次が上毛,下毛,宇佐3郡,8万石で入部し,98年(元禄11)からは4万石に減封。1717年(享保2)奥平昌成が入封して以後,昌敦,昌鹿,昌男,昌高,昌暢,昌猷,昌服,昌邁と9代150年余にわたって支配した。領地は豊前国上毛,下毛,宇佐3郡で6万2000石余,筑前国怡土(いと)郡のうちで1万8000石弱,備後国安那,神石(じんせき),甲怒(こうぬ)3郡のうち2万石余と,計10万石に分かれており,三御領と称していた。年貢率も,飛地である筑前領,備後領は豊前領に比べて低かった。豊前領は上毛・下毛両郡と宇佐郡平野部の城附(しろつき)4万石と添地(そえち)に編成されていた。文化面では,蘭学に見るべきものが多く,《ターヘル・アナトミア》の翻訳に力を尽くした前野良沢は,侍医の家に生まれている。5代昌高の1790年(寛政2)には藩校進脩館を設立し,1810年(文化7)和蘭辞書である《蘭語訳撰》を,22年(文政5)蘭和辞書《中津バスタード辞書》を刊行した。こうした伝統のなかから福沢諭吉が生まれたといえよう。71年(明治4)廃藩置県により中津県となり,数度の編成替えを経て76年福岡県より大分県に編入された。
執筆者:豊田 寛三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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中津藩
なかつはん
豊前(ぶぜん)国下毛(しもげ)郡中津(大分県中津市)に藩庁を置いた藩。豊臣(とよとみ)秀吉の九州平定後、黒田孝高(よしたか)が豊前6郡を与えられて中津に入ったが、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いの戦功によって筑前(ちくぜん)福岡に移封。そのあと細川忠興(ただおき)が豊前1国、豊後(ぶんご)国国東(くにさき)、速見(はやみ)2郡を与えられて中津に入ったが、02年には小倉(こくら)城を築いて移り、中津はその支城となった。1632年(寛永9)細川氏が肥後熊本に移ると、播磨(はりま)(兵庫県)龍野(たつの)の小笠原長次(おがさわらながつぐ)が上毛(こうげ)、下毛、宇佐3郡に8万石を与えられて中津に入った。長次のあと長勝、長胤(ながたね)、長円(ながのぶ)、長邕(ながさと)と続いたが、その間、1698年(元禄11)には長胤の不行跡のため領地を没収され、先祖の勲功によって4万石で相続を許された。しかし1716年(享保1)長邕が夭逝(ようせい)したため改易となり、そのあと丹後(たんご)(京都府)宮津の奥平昌成(おくだいらまさなり)が上毛、下毛、宇佐3郡および筑前国、備後(びんご)国に10万石を与えられて中津に入った。昌成のあと昌敦(まさあつ)、昌鹿(まさか)、昌男、昌高、昌暢(まさのぶ)、昌猷(まさみち)、昌服(まさもと)、昌邁(まさゆき)と9代続き、廃藩置県に至った。昌高は蘭学(らんがく)に深く傾倒して『中津辞書』を出版、隠居後も昌猷を後見し、茶坊主の黒沢庄右衛門(しょうえもん)を登用して天保(てんぽう)の改革を実施した。『解体新書』を著した前野良沢(りょうたく)は藩医、福沢諭吉は下級士族の出身である。藩校進修館は1796年(寛政8)創立。1871年(明治4)7月廃藩、中津県を経て同年11月小倉県となり、76年4月福岡県に統合されたが、同年8月下毛、宇佐2郡は大分県に割属された。
[柴多一雄]
『『新編物語藩史 第11巻』(1975・新人物往来社)』
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なかつはん【中津藩】
江戸時代、豊前(ぶぜん)国下毛(しもげ)郡中津(現、大分県中津市)に藩庁をおいた、初め外様(とざま)藩、のち譜代(ふだい)藩。藩校は慶応義塾大学の源流の一つとなった進修館(しんしゅうかん)。1587年(天正(てんしょう)15)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)による九州征伐後、黒田孝高(よしたか)(如水(じょすい))が領有したが、1600年(慶長(けいちょう)5)、関ヶ原の戦いで戦功をあげた細川忠興(ただおき)が入封(にゅうほう)、中津藩が成立した。忠興が02年に小倉城に移って小倉藩が成立すると、中津城は支城となり城代がおかれた。32年(寛永(かんえい)9)に細川氏が肥後(ひご)国熊本藩へ転封(てんぽう)(国替(くにがえ))されると、譜代の小笠原長次(ながつぐ)が8万石で中津に入封した。しかし5代長邕(ながさと)が幼くして死去して1716年(享保(きょうほう)1)に改易(かいえき)、代わって丹後(たんご)国宮津藩から奥平昌成(おくだいらまさしげ)が10万石で入封、以明治維新まで奥平氏9代が続いた。5代昌高(まさたか)は蘭学に傾倒して『蘭語訳撰』(中津辞書)を刊行。前野良沢(まえのりょうたく)、福沢諭吉(ふくざわゆきち)らを輩出した。1871年(明治4)の廃藩置県で中津県となり、その後、小倉県を経て76年に福岡県から下毛・宇佐2郡が割譲されて大分県に編入された。
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中津藩【なかつはん】
豊前(ぶぜん)国中津に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。藩主は関ヶ原の戦後,黒田孝高(よしたか)に代わり細川忠興(ただおき)が入封,その後小笠原氏・奥平氏と変遷。領知高約4万石〜30万石。江戸後期,奥平氏は藩校進脩(しんしゅう)館を創設。幕末には医学校を開いた。藩医であった前野良沢(りょうたく)等は《解体新書》を翻訳。藩主昌高は中津版オランダ辞書の《蘭語訳撰》などを刊行,こうした環境の中から明治の思想家福沢諭吉(ゆきち)がでた。
→関連項目豊前国
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中津藩
なかつはん
江戸時代,豊前国中津地方 (福岡県) を領有した藩。豊臣秀吉の九州征伐後の天正 15 (1587) 年黒田孝高が 18万 1900石で封じられたのに始る。慶長5 (1600) 年に黒田氏に代って細川忠興が 39万 9000石で入封。細川氏が同7年小倉へ移封すると,寛永9 (32) 年小笠原長次が8万石で入封。5代長胤のとき所領を没収されたが,長円が再封されて4万石を領し享保1 (1716) 年に除封,代って翌年奥平昌成が丹後 (京都府) 宮津から 10万石で入封して,廃藩置県にいたった。奥平氏は譜代,江戸城帝鑑間詰。
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中津藩
豊前国、中津(現:大分県中津市)を本拠地とした藩。豊臣秀吉の九州征伐で戦功のあった黒田孝高(よしたか)(如水)が領有していたが、関ヶ原の戦いの後に転封、代わって豊前一国と豊後国の一部を与えられた細川忠興(ただおき)が39万石で入封。忠興は小倉城を建築してこれを本城とし、当初の居城の中津城は支城になった。寛永年間、国替えにより小笠原長次(ながつぐ)8万石で入封。享保年間に小笠原氏が改易となり、以後は奥平氏が幕末まで藩主をつとめた。
出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報
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世界大百科事典(旧版)内の中津藩の言及
【大名屋敷】より
…また諸藩の江戸藩邸の維持経営に関する支出は,個々の藩財政の過半を占めてその
迫(ひつぱく)をもたらすことともなった。なお,例えば築地鉄砲洲にあった豊前中津藩の中屋敷において,同藩医前野良沢が同志とともに《解体新書》の翻訳を進め1774年(安永3)に刊行したこと,また1858年(安政5)に同じ中屋敷内に福沢諭吉が蘭学塾を開いたことなどに見られるような,諸藩の江戸屋敷が果たした文化史的役割も見落とすことができない。幕末・維新期には荒廃したものもあったが,1870年(明治3)大名の藩邸と私邸を各1ヵ所に限るとされたほか,上地を命ぜられて新政府の役所や用地になったものや,新宿御苑(信濃内藤家下屋敷),小石川後楽園(水戸徳川家上屋敷),本郷東京大学(金沢前田家上屋敷)など学校,公園,公共施設などに利用されて現在に至るものが多い。…
【備後国】より
…1853年(嘉永6)には,老中として幕政に貢献した正弘に,幕府備後領のうちから1万石が加増されている。さらに1717年丹後国宮津から豊前国中津へ転じた奥平昌成(まさしげ)に,幕府備後領から2万石が与えられて中津藩備後領が成立し,神石郡小畠村に代官役所を設け,代々村田氏を名のる地元取立ての代官を任命した。このため,幕府備後領は2万石弱になったので,上下代官所を石見国大森代官所の出張陣屋に切り換えられた。…
【豊前国】より
…これら3大名は江戸幕府が外様大名の監視役として九州に送り込んだ譜代大名であった。45年(正保2)松平氏は豊後国杵築(きつき)に移り,98年(元禄11)[中津藩]は領地を半減され,幕府領,島原(肥前)領,旗本小笠原領がおかれた。1717年(享保2)中津小笠原氏の改易後は奥平氏が入国した。…
※「中津藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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