遠山村(読み)とおやまむら

日本歴史地名大系 「遠山村」の解説

遠山村
とおやまむら

[現在地名]米沢市遠山町・矢来やらい一―二丁目・堀川町ほりかわちよう林泉寺りんせんじ一―二丁目・御廟ごびよう二丁目・城西じようせい一丁目

館山たてやま村の南東に位置し、山の東麓斜面に立地。天文七年(一五三八)の段銭古帳に上長井庄「とを山」とみえ、一四貫六七五文を上納している。天文の乱中の同一三年一〇月二六日伊達稙宗は、小簗川日双(宗朝)に同名尾張守(親宗)の領していた遠山郷の替地として福田郷顕松裁配分を与えている(伊達正統世次考)。天正一五年(一五八七)の上長井段銭帳によれば、遠山から宮川四郎左衛門分として二四四文、中村金三分二〇〇文を上納している。


遠山村
とおやまむら

[現在地名]紫波町遠山

北田きただ村の南、山間丘陵地に囲まれた平坦地に位置。東は紫野むらさきの村、西は星山ほしやま村、南は赤沢あかざわ村。遠野街道が通る。寛永一八年(一六四一)の高二二六石余(「検地高目録写」県立図書館蔵)。「雑書」正保四年(一六四七)九月一九日条に「志和郡遠山於御鳥屋、若兄鷹一居」とあり、地内に鷹狩用の鷹を捕らえるための施設があったとみられる。正保国絵図に村名がみえ、高一三四石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高二四六石余、七ヵ年平均の免一ツ四分七厘三毛。元禄十郡郷帳による〆高は、田方三一二石余・畑方二六石余、北沢きたざわ村が入るとある。


遠山村
とおやまむら

[現在地名]横芝町遠山・長山台ながやまだい

鵜羽山うばやま村の西に位置する。宝徳四年(一四五二)の檀那門跡相承資(茨城県逢善寺文書)に「上総武射多宇山」とあり、当地が関東天台宗の拠点の一つであったことが知られる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高九五石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では八田組に属し、旗本新庄領一一三石。以後幕末まで同領(旧高旧領取調帳)。享保一五年(一七三〇)の高一一四石余、田方納米一〇八俵(四斗入)余・畑方納米一七俵余・畑方定納永一貫六六八文。田方は定免百姓は一〇ヵ年平均から免率を定めるよう求めたが、新庄氏は五ヵ年平均としたという(小川家文書)


遠山村
とおやまむら

[現在地名]嵐山町遠山

外秩父そとちちぶ山地東縁の山地に囲まれたつき川左岸に位置する。東は千手堂せんじゆどう村・平沢ひらさわ村、西は下里しもざと(現小川町)。交通不便で周囲から遠い山中にあることが地名の由来という(嵐山町誌)玉川たまがわ領に属した(風土記稿)。田園簿では田高一三石余・畑高三五石余、幕府領。寛文八年(一六六八)の御縄打水帳(杉田家文書)によると高七九石余で、反別は田一町九反余・畑一〇町余。名請百姓は二三名おり、寺一。一戸平均の所持田畑は五反ほどであった。


遠山村
とおやまむら

[現在地名]牛久町遠山

水戸街道沿いにあり、北は牛久村。弘安大田文の「河内郡廿七丁七段半」のなかに「遠山二丁二段」とある。文安三年(一四四六)二月一八日の憲景譲状(臼田文書)に「常陸国河内郡遠山郷」とあり、上杉氏の被官と思われる憲景が当郷を江戸崎に拠った臼田勘解由左衛門尉の子息藤四郎政重に譲渡している。戦国末期に岡見氏の支配下に入るが、寛永六年(一六二九)牛久藩領となり(寛政重修諸家譜)、「寛文朱印留」に「遠山村舟役高ニ入」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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