日本歴史地名大系 「嵐山町」の解説 嵐山町らんざんまち 埼玉県:比企郡嵐山町面積:二九・八五平方キロ東松山市によって東西に二分された比企郡の西部の北部中央に位置し、東は滑川(なめがわ)町と東松山市、南は鳩山(はとやま)町・西は玉川(たまがわ)村と小川(おがわ)町、北は大里郡寄居(よりい)町・川本(かわもと)町・江南(こうなん)町に接する。町域は東西約五キロ・南北約一一・五キロと南北に細長い。町の中央を北西から南東に市野(いちの)川が流れ、南部を都幾(とき)川が東流し、同川左岸に槻(つき)川が合流する。市野川の北部は比企丘陵、同川と都幾川に挟まれた区域が東松山台地、都幾川の南部は岩殿(いわどの)丘陵と、大きく三つの地形に画されている。また西部は外秩父(そとちちぶ)山地の東縁にあたる山地である。遺跡は槻川の河岸段丘、都幾川両岸の河岸段丘上、市野川両岸の丘陵裾部、北部の丘陵地帯、南部の丘陵地帯に分布。旧石器時代の遺物は行司免(ぎようじめん)遺跡で発掘されているが、すべて後世の遺構覆土からの出土である。縄文時代の土器は寺山(てらやま)遺跡発見の早期の撚糸文系土器が最古である。早期末では志賀(しが)の金平(かねひら)遺跡の竪穴住居跡から条痕文のついた土器が出土。前期の遺跡は槻川に面した山根(やまね)遺跡が発掘され、黒浜式・諸磯式土器を伴う竪穴住居跡が発見された。中期の集落は丘陵上に中郷(なかごう)遺跡など数多く分布しているが、都幾川右岸の行司免遺跡に代表される。ここでは環状に並ぶ中期中葉―後期初頭の竪穴住居跡二六一軒のほか、集石土壙一三一基・土壙九基、土器捨場二ヵ所が発掘された。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「嵐山町」の意味・わかりやすい解説 嵐山〔町〕らんざん 埼玉県中部,比企丘陵の西部にある町。 1967年町制。荒川の支流槻 (つき) 川に京都の嵐山に比べられる武蔵嵐山の景勝地があり,町名の由来となる。丘陵地を刻む小谷の奥にはため池が多く谷地田 (やちだ) が散在する。米作,畜産,露地野菜の栽培が行われる。鎌倉時代に発達した土地で,南部の中心地区菅谷には畠山重忠の館跡である菅谷城跡 (史跡) があり,比企丘陵県立自然公園に属する。東武鉄道東上線が通る。面積 29.92km2。人口 1万7889(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by