遠州(読み)えんしゅう

精選版 日本国語大辞典 「遠州」の意味・読み・例文・類語

えん‐しゅう ヱンシウ【遠州】

[1]
[一] 遠江国の異称。静岡県の西部にあたる。
[二] 江戸初期の茶人、造園家、小堀(こぼり)遠州のこと。
[2] 〘名〙
※東京風俗志(1899‐1902)〈平出鏗二郎〉下「今都下に行はるる所の流派は、千家、裏千家、不白千家、石州、有楽、遠州等なり」
※破垣(1901)〈内田魯庵〉四「池の坊にも石州にも遠州にもあらぬ四十八手の秘伝免許を得たる花の博士と云へば」

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デジタル大辞泉 「遠州」の意味・読み・例文・類語

えん‐しゅう〔ヱンシウ〕【遠州】


遠江とおとうみ国の異称。
小堀遠州こぼりえんしゅう
遠州流」の略。

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日本歴史地名大系 「遠州」の解説

遠州
えんしゆうなだ

御前おまえ崎から愛知県の渥美あつみ半島に至る海岸。駿河湾と違って、遠浅平滑な砂浜からなる。これは沖合に大陸棚が発達するためである。遠州灘の大陸棚は西部で幅二〇キロ、外縁の深さが三〇〇メートル、東部で幅八キロ、外縁の深さが一二〇―一六〇メートル、御前崎沖合では南に四〇キロも突き出している。海岸の砂は天竜川から吐出されたものが波や沿岸流で運ばれたもので、天竜河口から離れるほど砂粒が小さくなり、また白い粒子(石英や長石)の率が増える。移動するにつれて大きな粒子や重たい黒色粒子をあとに残す作用(選別作用)が働いたためである。海岸砂地の幅は浜松市で四キロと広いが、その他は二―三キロ以下である。目立つ地形は砂丘と砂洲列(砂堤列)である。発達した砂丘で有名なのは中田島なかたじま大須賀おおすか千浜ちはま浜岡はまおか地区で、いずれも海岸線の向きが東南東ないし南東、冬の強い季節風(西風)が浜辺の砂を陸側に吹送るようになっている。砂洲列は海岸線に並行して幅数百メートル、高さ一―二メートルの細長い砂地の高まりが何列も走る。浜松市では顕著なものが六列、浅羽あさば町では五列内外、大東だいとう町では最低四列ある。砂洲列間は低地で水はけが悪く、湿地(今は水田)となっている所が少なくない。遠州灘の海岸線が現位置に定着したのは中世以降のことである。永河期最盛期の約一万八千年前の海面は今よりも一三〇メートルも低く、海岸線も遥か沖合の大陸棚の縁辺りにあった。その後の気候の温暖化によって海面が上昇し、約六千年前に現水準に落着いた。その時は各河川の下流は入江で、遠州灘でも浜名湖水域、太田おおた川・きく川沿いに深い入江ができ、リアス海岸を呈していた。天竜川からの優勢な土砂の吐出しで河口の沖は埋立てられ、海流・波の働きで土砂が東西に移動し砂洲ができた。前述の砂洲列の最も内側の砂洲がそれで、現海岸線の原形である。時期は浜松市で縄文時代早期、浅羽町では縄文中期頃であった。

平城宮跡出土木簡によれば、奈良時代に遠江長下ながのしも郡・山名やまな郡から中男作物として堅魚が進上されたことが知られ、遠州灘に面した郡では鰹が進上され、ほかに雑魚のや煮塩年魚が貢上されていた。また浜松市伊場いば遺跡出土の墨書土器に「海屎子女形」と記されたものがある「海(海部)は漁業などを営む集団に与えられた姓で、遠州灘との関係が想定される。中世の遠州灘は京都や伊勢・紀州熊野と駿河・伊豆および関東を結ぶ航路上に位置していた。しかし強風と大波のため海難が多く、さらに沿岸は単調な砂浜の海岸のため寄港地がさほど発達しなかったこともあって、交通の難所として知られていた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「遠州」の解説

遠州 えんしゅう

小堀遠州(こぼり-えんしゅう)

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藩名・旧国名がわかる事典 「遠州」の解説

えんしゅう【遠州】

遠江国(とおとうみのくに)

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世界大百科事典(旧版)内の遠州の言及

【遠江国】より

…旧国名。遠州。現在の静岡県西部,大井川以西。…

※「遠州」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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