「むねよし」とも読む。後醍醐(ごだいご)天皇の皇子。母は二条為世(ためよ)の娘為子。延暦(えんりゃく)寺に入り尊澄法親王(そんちょうほうしんのう)と称す。1330年(元徳2)天台座主(てんだいざす)となる。31年(元弘1)元弘(げんこう)の変が起こると後醍醐の討幕運動に参加、笠置(かさぎ)山(京都府相楽(そうらく)郡笠置町)にこもったが捕らわれて讃岐(さぬき)(香川県)へ流された。33年(元弘3・正慶2)幕府が滅びると帰洛(きらく)してふたたび天台座主となる。しかし建武新政が崩壊すると、還俗(げんぞく)して宗良親王と改名、翌38年(延元3・暦応1)、後醍醐天皇の南朝再建策の一つ、遠江(とおとうみ)を根拠地とするため、奥州を目ざす北畠親房(きたばたけちかふさ)らとともに伊勢(いせ)国大湊(おおみなと)を出発、途中暴風雨にあうが、親王は幸運にも目的の遠江に漂着した。のち信濃(しなの)を中心に各地で転戦し、52年(正平7・文和1)南朝軍の武力行動が各地で始まると征夷(せいい)大将軍となり、諏訪(すわ)氏らを率いて碓氷(うすい)峠を越える。74年(文中3・応安7)吉野に戻り、77年(天授3・永和3)再度落飾、80年(天授6・康暦2)南朝方の君臣の和歌『新葉(しんよう)和歌集』を撰(せん)した。和歌をよくし、家集に『李花(りか)集』がある。『続史愚抄(ぞくしぐしょう)』などによれば、85年(元中2)8月に没した。
[黒田弘子]
〈むねなが〉ともよむ。後醍醐天皇の皇子。歌人。母は歌道家二条為世の女為子。幼時妙法院門跡に入室,法名尊澄。1330年(元徳2)天台座主となり父帝の討幕計画に重要な役割を果たしたが,元弘の乱に際して父帝とともに捕らわれ,32年(元弘2)讃岐へ配流。33年建武新政が成ると天台座主に還任。南北朝対立の後は,37年(延元2・建武4)還俗して宗良と名のり,遠江に下って南軍の拠点づくりに努めた。翌年奥州の北畠顕家が西上すると,これに応じて吉野に戻ったが,南軍の戦績は振るわず,同年形勢の挽回を期して再び遠江に下った。こののち越中,越後,信濃に転戦し,52年(正平7・文和1)には征夷大将軍となり,また新田義宗・同義興らに支えられて一時鎌倉を制圧したがまもなく奪回された。74年(文中3・応安7)に吉野へ帰り,81年には南朝君臣の歌を集めて《新葉和歌集》を撰進,勅撰に擬せられた。
執筆者:森 茂暁
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(飯倉晴武)
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1311~85.8.10?
「むねなが」とも。後醍醐天皇の皇子。母は二条為世の女為子。幼くして妙法院に入室,法名尊澄。1330年(元徳2)天台座主となる。翌年元弘の乱で挙兵したが失敗し,讃岐国へ流された。幕府滅亡後帰京し天台座主に復したが,足利尊氏が離反すると還俗し宗良と称した。38年(暦応元・延元3)北畠親房(ちかふさ)らとともに伊勢から海路東国下向を試みたが遭難。遠江・越後・信濃などを転々としたのち,52年(文和元・正平7)後村上天皇から征夷大将軍に任じられた。南朝君臣の詠歌を編集した「新葉和歌集」を撰進。家集「李花集」。
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※「宗良親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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