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宗良親王 むねながしんのう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

宗良親王
むねながしんのう

[生]正和1(1312)
[没]?
鎌倉時代末期~南北朝時代の歌人。後醍醐天皇の皇子。正しくは「むねよし」と読む。信濃宮・信州中書王。母は二条為世の女,贈従三位為子。早く出家して妙法院に入り,18歳で天台座主。翌年元弘の乱で讃岐へ流され,建武中興で帰京して,再び天台座主。

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デジタル大辞泉の解説

むねなが‐しんのう〔‐シンワウ〕【宗良親王】

[1311~1385?]後醍醐天皇の皇子。名は「むねよし」とも。初め尊澄法親王と称し、天台座主となる。元弘の変に敗れて讚岐(さぬき)に配流。建武政権崩壊ののち還俗、南朝の中心として各地を転戦。「新葉和歌集」を撰集。家集に「李花集」がある。

むねよし‐しんのう〔‐シンワウ〕【宗良親王】

むねながしんのう(宗良親王)

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百科事典マイペディアの解説

宗良親王【むねよししんのう】

南北朝時代の歌人。後醍醐天皇の子。母は二条為世(ためよ)の女為子(いし)。名は〈むねなが〉とも。天台座主となったが,還俗し,南朝のため転戦した。二条派の歌をよみ,《新葉和歌集》を編集。
→関連項目井伊谷宮

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

宗良親王 むねよししんのう

1311-? 鎌倉-南北朝時代,後醍醐(ごだいご)天皇の皇子。
応長元年生まれ。母は藤原為子。延暦(えんりゃく)寺にはいって天台座主となる。父の討幕運動にしたがい,建武(けんむ)の新政の失敗後は還俗(げんぞく)。南朝のため,信濃(しなの)(長野県)を中心に各地を転戦した。晩年に「新葉和歌集」を撰した。至徳元=元中元年(1384)前後に死去。法名は尊澄(そんちょう)。家集に「李花集」。
【格言など】思ひやれ木曾のみ坂も雲とづる山のこなたの五月雨(さみだれ)の頃(「李花集」)

宗良親王 むねながしんのう

むねよししんのう

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朝日日本歴史人物事典の解説

宗良親王

没年:没年不詳(没年不詳)
生年:応長1(1311)
後醍醐天皇の皇子,母は二条為世の女為子。はじめ妙法院に入室,出家して尊澄法親王と称し同門跡を嗣ぎ,さらに天台座主となった。父天皇が討幕活動をはじめると行動をともにし,元弘の変(1331)後,鎌倉幕府方により讃岐(香川県)へ流された。建武新政で京に戻り天台座主に還任したが,南北朝内乱が始まると還俗して宗良と名乗り,父天皇の軍事面の一方を受け持った。まず伊勢に赴き,その後遠江(静岡県)井伊城に行った。一時吉野に戻り,暦応1/延元3(1338)年9月北畠親房らと共に船で伊勢大湊から東国をめざしたが,台風によって親王の一行のみ遠江に漂着,再び井伊城に入り,以後信濃(長野県)を中心に北陸,関東に転戦した。南朝勢力が下降すると信濃小笠原氏に押され,同国伊那地方に籠もり永徳2/弘和2(1382)から至徳1/元中1(1384)年ごろ同地で死去。その間何回か南朝行宮に赴いている。和歌に秀で歌集『李花集』があるほか,南朝関係者の和歌を集めて,勅撰集に準ぜられた『新葉和歌集』を編集した。

(飯倉晴武)

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世界大百科事典 第2版の解説

むねよししんのう【宗良親王】

1311‐85(応長1‐元中2∥至徳2)
〈むねなが〉ともよむ。後醍醐天皇の皇子。歌人。母は歌道家二条為世の女為子。幼時妙法院門跡に入室,法名尊澄。1330年(元徳2)天台座主となり父帝の討幕計画に重要な役割を果たしたが,元弘の乱に際して父帝とともに捕らわれ,32年(元弘2)讃岐へ配流。33年建武新政が成ると天台座主に還任。南北朝対立の後は,37年(延元2∥建武4)還俗して宗良と名のり,遠江に下って南軍の拠点づくりに努めた。翌年奥州の北畠顕家が西上すると,これに応じて吉野に戻ったが,南軍の戦績は振るわず,同年形勢の挽回を期して再び遠江に下った。

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大辞林 第三版の解説

むねながしんのう【宗良親王】

むねよししんのう【宗良親王】

1311~1385?) 後醍醐天皇の皇子。延暦寺にはいり尊澄法親王と称し、天台座主となった。建武政権瓦解ののち還俗、南朝勢を率い数十年にわたって各地に転戦した。和歌をよくし、「新葉和歌集」を撰進。歌集に「李花集」がある。

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世界大百科事典内の宗良親王の言及

【新葉和歌集】より

…南北朝期の準勅撰集。撰者は後醍醐天皇皇子宗良(むねよし)親王。1376年(天授2)ころに発企,81年(弘和1)10月に長慶天皇の綸旨が下り,同12月3日に奏覧。…

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