宗良親王(読み)ムネナガシンノウ

デジタル大辞泉 「宗良親王」の意味・読み・例文・類語

むねなが‐しんのう〔‐シンワウ〕【宗良親王】

[1311~1385?]後醍醐天皇の皇子。名は「むねよし」とも。初め尊澄法親王と称し、天台座主となる。元弘の変に敗れて讃岐さぬきに配流。建武政権崩壊ののち還俗、南朝の中心として各地を転戦。「新葉和歌集」を撰集。家集に「李花集」がある。

むねよし‐しんのう〔‐シンワウ〕【宗良親王】

むねながしんのう(宗良親王)

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精選版 日本国語大辞典 「宗良親王」の意味・読み・例文・類語

むねよし‐しんのう‥シンワウ【宗良親王】

  1. 南北朝時代の歌人。後醍醐天皇の皇子。「むねなが」とも読む。母は二条為世の女為子。はじめ妙法院入室、のち尊澄法親王と称し、ついで天台座主となる。元弘の変が始まると、異母兄護良親王とともに討幕運動に参画し、敗れて讚岐国(香川県)に流される。建武中興となり帰洛したが、足利尊氏が叛して乱世となるや、還俗して宗良と改名し、その後南朝のため信濃国(長野県)を中心に東国各地に転戦した。弘和元年(一三八一)、後醍醐・後村上・長慶天皇三代の、南朝の君臣の歌を集めて「新葉和歌集」を撰した。また、親王自身の歌集に「李花集」がある。応長元年(一三一一)生まれ。

むねなが‐しんのう‥シンワウ【宗良親王】

  1. むねよししんのう(宗良親王)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宗良親王」の意味・わかりやすい解説

宗良親王(むねながしんのう)
むねながしんのう
(1311―?)

「むねよし」とも読む。後醍醐(ごだいご)天皇の皇子。母は二条為世(ためよ)の娘為子。延暦(えんりゃく)寺に入り尊澄法親王(そんちょうほうしんのう)と称す。1330年(元徳2)天台座主(てんだいざす)となる。31年(元弘1)元弘(げんこう)の変が起こると後醍醐の討幕運動に参加、笠置(かさぎ)山(京都府相楽(そうらく)郡笠置町)にこもったが捕らわれて讃岐(さぬき)(香川県)へ流された。33年(元弘3・正慶2)幕府が滅びると帰洛(きらく)してふたたび天台座主となる。しかし建武新政が崩壊すると、還俗(げんぞく)して宗良親王と改名、翌38年(延元3・暦応1)、後醍醐天皇の南朝再建策の一つ、遠江(とおとうみ)を根拠地とするため、奥州を目ざす北畠親房(きたばたけちかふさ)らとともに伊勢(いせ)国大湊(おおみなと)を出発、途中暴風雨にあうが、親王は幸運にも目的の遠江に漂着した。のち信濃(しなの)を中心に各地で転戦し、52年(正平7・文和1)南朝軍の武力行動が各地で始まると征夷(せいい)大将軍となり、諏訪(すわ)氏らを率いて碓氷(うすい)峠を越える。74年(文中3・応安7)吉野に戻り、77年(天授3・永和3)再度落飾、80年(天授6・康暦2)南朝方の君臣の和歌『新葉(しんよう)和歌集』を撰(せん)した。和歌をよくし、家集に『李花(りか)集』がある。『続史愚抄(ぞくしぐしょう)』などによれば、85年(元中2)8月に没した。

[黒田弘子]


宗良親王(むねよししんのう)
むねよししんのう

宗良親王

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改訂新版 世界大百科事典 「宗良親王」の意味・わかりやすい解説

宗良親王 (むねよししんのう)
生没年:1311-85(応長1-元中2・至徳2)

〈むねなが〉ともよむ。後醍醐天皇の皇子。歌人。母は歌道家二条為世の女為子。幼時妙法院門跡に入室,法名尊澄。1330年(元徳2)天台座主となり父帝の討幕計画に重要な役割を果たしたが,元弘の乱に際して父帝とともに捕らわれ,32年(元弘2)讃岐へ配流。33年建武新政が成ると天台座主に還任。南北朝対立の後は,37年(延元2・建武4)還俗して宗良と名のり,遠江に下って南軍の拠点づくりに努めた。翌年奥州の北畠顕家が西上すると,これに応じて吉野に戻ったが,南軍の戦績は振るわず,同年形勢の挽回を期して再び遠江に下った。こののち越中,越後,信濃に転戦し,52年(正平7・文和1)には征夷大将軍となり,また新田義宗・同義興らに支えられて一時鎌倉を制圧したがまもなく奪回された。74年(文中3・応安7)に吉野へ帰り,81年には南朝君臣の歌を集めて《新葉和歌集》を撰進,勅撰に擬せられた。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「宗良親王」の解説

宗良親王

没年:没年不詳(没年不詳)
生年:応長1(1311)
後醍醐天皇の皇子,母は二条為世の女為子。はじめ妙法院に入室,出家して尊澄法親王と称し同門跡を嗣ぎ,さらに天台座主となった。父天皇が討幕活動をはじめると行動をともにし,元弘の変(1331)後,鎌倉幕府方により讃岐(香川県)へ流された。建武新政で京に戻り天台座主に還任したが,南北朝内乱が始まると還俗して宗良と名乗り,父天皇の軍事面の一方を受け持った。まず伊勢に赴き,その後遠江(静岡県)井伊城に行った。一時吉野に戻り,暦応1/延元3(1338)年9月北畠親房らと共に船で伊勢大湊から東国をめざしたが,台風によって親王の一行のみ遠江に漂着,再び井伊城に入り,以後信濃(長野県)を中心に北陸,関東に転戦した。南朝勢力が下降すると信濃小笠原氏に押され,同国伊那地方に籠もり永徳2/弘和2(1382)から至徳1/元中1(1384)年ごろ同地で死去。その間何回か南朝行宮に赴いている。和歌に秀で歌集『李花集』があるほか,南朝関係者の和歌を集めて,勅撰集に準ぜられた『新葉和歌集』を編集した。

(飯倉晴武)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宗良親王」の意味・わかりやすい解説

宗良親王
むねながしんのう

[生]正和1(1312)
[没]?
鎌倉時代末期~南北朝時代の歌人。後醍醐天皇の皇子。正しくは「むねよし」と読む。信濃宮・信州中書王。母は二条為世の女,贈従三位為子。早く出家して妙法院に入り,18歳で天台座主。翌年元弘の乱で讃岐へ流され,建武中興で帰京して,再び天台座主。延元2=建武4 (1337) 年還俗。南北朝の争乱の激化に伴い,吉野へ落ち,以後南朝の中心として信州を本拠に遠江,越後,越中などに転戦,文中3=応安7 (74) 年には 35年ぶりに吉野へ帰り,南朝歌壇の中心として弘和1=永徳1 (81) 年『新葉和歌集』を撰集。その後再び信州に下り,元中6=康応1 (89) 年以前に没。家集『李花集』に 899首。

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百科事典マイペディア 「宗良親王」の意味・わかりやすい解説

宗良親王【むねよししんのう】

南北朝時代の歌人。後醍醐天皇の子。母は二条為世(ためよ)の女為子(いし)。名は〈むねなが〉とも。天台座主となったが,還俗し,南朝のため転戦した。二条派の歌をよみ,《新葉和歌集》を編集。家集に《李花集》がある。
→関連項目井伊谷宮

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「宗良親王」の解説

宗良親王
むねよししんのう

1311~85.8.10?

「むねなが」とも。後醍醐天皇の皇子。母は二条為世の女為子。幼くして妙法院に入室,法名尊澄。1330年(元徳2)天台座主となる。翌年元弘の乱で挙兵したが失敗し,讃岐国へ流された。幕府滅亡後帰京し天台座主に復したが,足利尊氏が離反すると還俗し宗良と称した。38年(暦応元・延元3)北畠親房(ちかふさ)らとともに伊勢から海路東国下向を試みたが遭難。遠江・越後・信濃などを転々としたのち,52年(文和元・正平7)後村上天皇から征夷大将軍に任じられた。南朝君臣の詠歌を編集した「新葉和歌集」を撰進。家集「李花集」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宗良親王」の解説

宗良親王 むねよししんのう

1311-? 鎌倉-南北朝時代,後醍醐(ごだいご)天皇の皇子。
応長元年生まれ。母は藤原為子。延暦(えんりゃく)寺にはいって天台座主となる。父の討幕運動にしたがい,建武(けんむ)の新政の失敗後は還俗(げんぞく)。南朝のため,信濃(しなの)(長野県)を中心に各地を転戦した。晩年に「新葉和歌集」を撰した。至徳元=元中元年(1384)前後に死去。法名は尊澄(そんちょう)。家集に「李花集」。
【格言など】思ひやれ木曾のみ坂も雲とづる山のこなたの五月雨(さみだれ)の頃(「李花集」)

宗良親王 むねながしんのう

むねよししんのう

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旺文社日本史事典 三訂版 「宗良親王」の解説

宗良親王
むねよししんのう

1311〜?
南北朝時代の皇族
後醍醐 (ごだいご) 天皇の皇子。幼少で出家し天台座主 (ざす) (尊澄法親王)となる。1331年天皇の討幕計画に加わって(元弘の変)讃岐に流された。建武の新政瓦解後,'38年北畠親房らと東国に下る途中遠江 (とおとうみ) に漂着。信濃を中心に中部地方で活躍した。また『新葉和歌集』の撰者で,家集に『李花集』がある。

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世界大百科事典(旧版)内の宗良親王の言及

【新葉和歌集】より

…南北朝期の準勅撰集。撰者は後醍醐天皇皇子宗良(むねよし)親王。1376年(天授2)ころに発企,81年(弘和1)10月に長慶天皇の綸旨が下り,同12月3日に奏覧。…

※「宗良親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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