デジタル大辞泉 「邯鄲の歩み」の意味・読み・例文・類語 邯鄲かんたんの歩あゆみ 《昔、燕の青年が邯鄲に歩き方を習いにいったが習得できず、故国の歩き方も忘れてはって帰ったという「荘子」秋水の故事から》むやみに他人のまねをすれば、自分本来のものも忘れて、両方とも失うことのたとえ。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
精選版 日本国語大辞典 「邯鄲の歩み」の意味・読み・例文・類語 かんたん【邯鄲】 の 歩(あゆ)み ( 中国、燕の田舎者が、趙の都邯鄲の人々の洗練された歩き方をまねようとして身につかず、その上自分の歩き方を忘れて、はらばって帰ったという、「荘子‐秋水」に見える故事から ) 自分の本分を忘れて、むやみに他人をまねると中途半端になり、どちらもだめになってしまうということのたとえ。 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
故事成語を知る辞典 「邯鄲の歩み」の解説 邯鄲の歩み 自分の本分を忘れ、いたずらに他人のまねをすると、結局はどちらもだめになってしまうというたとえ。 [使用例] 僕はこの本を手にしたまま、ふといつかペン・ネエムに用いた「寿じゅ陵りょう余よ子し」と云う言葉を思い出した。それは邯鄲の歩みを学ばないうちに寿陵の歩みを忘れてしまい、蛇行匍ほ匐ふくして帰郷したと云う「韓非子」中の青年だった[芥川龍之介*歯車|1927] [由来] 「荘子―秋水」に見えるたとえ話から。中国の戦国時代、寿じゅ陵りょうという町の若者が、趙ちょうという国の都、邯鄲を訪れ、人々が颯さっ爽そうとした歩き方をしているのに憧れて、そのまねをしようとしました。しかし、まだ身に付けないうちに元の歩き方も忘れてしまい、這はって帰ったということです。 出典 故事成語を知る辞典故事成語を知る辞典について 情報