デジタル大辞泉 「邯鄲」の意味・読み・例文・類語
かんたん【邯鄲】[地名]
謡曲。四番目物。「邯鄲の枕」の故事に取材したもの。
長唄・
三島由紀夫の戯曲。をモチーフとする1幕の近代劇。昭和25年(1950)、雑誌「人間」に発表。同年、劇団テアトロトフンが初演。「近代能楽集」の最初の作品。
中国、河北(かほく)省南部の地級市。京広線に沿う工業都市である。6市轄区、11県を管轄し、1県級市の管轄代行を行う(2016年時点)。人口1029万5000(2014)。周囲の平野は綿花や小麦、トウモロコシの一大生産地帯で、かつては農村地帯からの農産物の集散を中心とする商業都市であったが、南西の峰峰(ほうほう)には炭田があり、中華人民共和国成立後は製鉄、機械などの重工業が発達して大きな工業都市となった。河北省と山西(さんせい)、河南(かなん)、山東(さんとう)3省の境界に位置する交通の要所であり、京広高速鉄道が通るほか、邯長線(邯鄲―長治(ちょうち))、邯済線(邯鄲―済南(さいなん))、邯黄線(邯鄲―黄驊(こうか))の起点となっている。
[秋山元秀・編集部 2017年3月21日]
太行(たいこう)山脈の東麓、黄河(こうが)のすぐ北にあり、先史時代から集落の開けた所であった。すぐ南の河南省安陽(あんよう)には殷墟(いんきょ)がある。春秋時代には衛の属国であったが、戦国時代に趙(ちょう)はここに都を置き、それ以来漢代に至るまで華北での経済、文化の中心として栄えた。付近で産する鉱石を利用して鉄の冶金を行い、王侯に匹敵する富をなした者もあり、また高級な遊女の存在でも有名であった(『史記』貨殖列伝)。秦(しん)は趙を滅ぼして郡と県を置いたが、その重要性は衰えず、漢になっても王族を派遣して治めたほどであった。しかし後漢(ごかん)以後、南方の開発が進むにつれ、経済の中心としての地位を失い、一地方都市にすぎない存在となった。1952年市が設けられ、1956年峰峰市を合併して今日に至る。
古代に繁栄した邯鄲は文学でも取り上げられることが多く、田舎(いなか)者が邯鄲へ行ってそこの人の歩き方をまねているうちに、自分の歩き方を忘れて這(は)って帰ったという故事(邯鄲学歩(かんたんがくほ)、『荘子』秋水篇(へん))、邯鄲の市で道士の枕を借りて寝た盧生(ろせい)が、一生のすべてを夢にみたが、目が覚めると眼前の黄粱(コウリャン)(粟(あわ))がまだ煮えてもいなかったという故事(邯鄲の夢、あるいは黄粱夢(こうりょうむ)、『枕中記(ちんちゅうき)』)は有名で、いずれも当時の邯鄲の経済、文化の繁栄を物語る。またこの故事にちなむ学歩橋、黄粱夢(呂翁祠(ろおうし))という旧跡もある。このほか趙時代の故城跡、宮殿跡といわれる叢台(そうだい)などの名勝もある。峰峰には南北朝時代から建設が始められた響堂山石窟(きょうどうさんせっくつ)があり、石仏、絵画など仏教芸術の宝庫である。
1945年10~11月、華北の解放区をめぐる国民党軍と人民解放軍との戦闘は、邯鄲の戦役として知られる。
[秋山元秀 2017年3月21日]
能の曲目。四番目物。五流現行曲。作者不明。中国の『枕中記(ちんちゅうき)』の話を紹介した『太平記』が原典であろう。人生に迷う青年盧生(ろせい)(シテ)が、邯鄲の宿で女主人(アイ)の勧めるままに、一生を夢みるという仙人の枕(まくら)を試みる。臥(が)したとたんに勅使(ワキ)が彼を起こし、帝王の位が譲られたことを告げる。宿の寝室はそのまま玉座となり、美童や多くの廷臣が居並ぶ。盧生は50年の歓楽を舞う。一畳台に4本の柱と屋根のついた狭い作り物のなかで、のびのびと帝王の栄華を舞う至難の演技である。人々が消え、ふたたび枕する盧生。その瞬間に女主人が粟(あわ)の飯が炊けたことを告げる。盧生は50年の栄華も一炊(いっすい)の夢と悟って帰っていく。テーマ、演出ともに傑出する能の名作。長唄(ながうた)、常磐津(ときわず)、箏曲(そうきょく)、地歌(じうた)など、後世の邦楽に多くの派生曲がある。ジャック・コポーがこの能の翻案・上演を企画したこともあり、三島由紀夫はその『近代能楽集』の最初の作品として『邯鄲』を書き、文学座によって初演(1950)された。
[増田正造]
中国,河北省南部の省専区轄市。人口133万(2000)。太行山脈の東麓と華北平原の間にあり,河北と中原,華北平原と山西高原とを結ぶ交通の要地に位置する。春秋時代から衛の邑(都市)としてあらわれ,戦国の初めに趙の都がおかれると(前386),その地の利から物資の交易地となり,全国の商人が集まる屈指の大都会として大いに繁栄した。趙が秦に滅ぼされて邯鄲郡となり(前228),漢代では一族が封建されて趙王国がおかれたが,邯鄲の繁栄も秦・漢時代までであった。その後は政治的中心でなくなったためにしだいに衰え,邯鄲県として三国時代は魏郡あるいは広平郡に,唐以後は磁州に,明・清では広平府にそれぞれ属し,もっぱら一地方の農産物の集散地として近年にいたった。しかし解放以後になると,紡績や鉄鋼をはじめとする各種工場が建設され,人口も増加して市となり,新しい工業都市としてめざましい発展をとげつつある。なお京広鉄道(北京~広州)に沿う現在の市街は五代(10世紀)に建設されたものである。
執筆者:永田 英正
邯鄲市近傍には,趙が残した趙王城,大北城(王郎城),百家村古墓群などの戦国遺跡と,漢代の遺跡が存在する。邯鄲市の南西3kmに残る戦国時代の故城址は趙王城と呼ばれている。この城址は正方形の主城とそれに接する東城からなり,主城は北壁1475m,東壁1475m,西壁1456m,南壁1387mが計測され,東城は南壁875m,北壁残長600m,東壁残長475mが計測されている。主城中央南寄りには竜台と呼ばれる台が残り,竜台北側にある台榭建築の基壇は,1940年に東亜考古学会による発掘調査が行われている。竜台北側基壇および趙王城内からは,三獣文円瓦当,無文円瓦当,筒瓦,板瓦,塼,土器,刀銭,銅鏃などの遺物が出土している。大北城(王郎城)の城壁遺構は,現在の邯鄲市の外周を取り囲んで存在すると推定される。大北城は北西角がくぼむ不規則な長方形を呈し,南北長約4800m,東西幅約3000mが想定されている。城内からは,戦国・漢代の製鉄遺址,陶窯址,石器製作工房,骨器製作工房などの遺構が発見されている。趙王城と大北城の関係については,大北城を戦国・漢代邯鄲城の主要部とし,趙王城を趙邯鄲城の宮殿区域とする考えがある。邯鄲市の西方5kmの百家村では,戦国墓49基,漢代墓10基の調査が行われている。いずれも長方形竪穴土壙墓で,戦国墓の多くは棺槨を有し,多数の副葬陶器を出土している。
執筆者:飯島 武次
能の曲名。四番目物。作者不明。シテは盧生(ろせい)。蜀の国の盧生という若者が人生に疑問を持ち,仏道の師を求めて羊飛山へ赴く途中,邯鄲の里で雨宿りをする。宿の女あるじ(アイ)が,不思議な枕を見せて勧めるので昼寝の床につくと,楚国の帝の使(ワキ)が来て盧生を起こし,譲位の勅を伝える。都へ導かれて即位した盧生は,満ち足りた栄華を味わう(〈上歌(あげうた)・下歌(さげうた)〉)。即位50年の酒宴では舞童(子方)の舞を見(〈夢ノ舞〉),自分も立って舞い興じるが(〈楽(がく)〉),それはすべて夢の中の出来事で,宿の寝台に寝ていたのだった(〈ノリ地〉)。起こされてみると,それはアワの飯がたける間のわずかの時間だったと知り,初めは茫然としていた盧生は,やがて人生のなんたるかを悟り,心安らかに故郷に帰る。現実・夢・現実という構成が巧みで,寝台であった作り物の屋台が,いつしか宮殿の玉座に変わるなど,能舞台の特色をよく生かしている。楽には,屋台の上下を使い分けるなど特殊な工夫がある。この作品の典拠は中国唐代の《枕中記》。
執筆者:横道 万里雄
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…正本包紙には〈ごしょさくら〉とある。《平家物語》《義経記》などの土佐坊のことを中心に,伊勢三郎,弁慶,静などの伝説を加え,また謡曲《邯鄲(かんたん)》をもじったり(五段目の景事《花扇邯鄲枕》)して脚色したもの。歌舞伎では,55年(宝暦5)6月京の沢村国太郎座が初演か。…
※「邯鄲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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