日本大百科全書(ニッポニカ) 「郡上騒動」の意味・わかりやすい解説
郡上騒動
ぐじょうそうどう
(1)延宝(えんぽう)騒動 美濃(みの)国(岐阜県)郡上藩遠藤氏の代に起きた家中対立に絡む農民騒動。第4代藩主常春(つねはる)は幼少で家中は2派に分かれた。藩財政立て直しに対する年貢増徴派の政策に、1677年(延宝5)農民が江戸の藩主に直訴し、訴えをいれようとする国家老遠藤杢之助(もくのすけ)ら反増徴派との対立が深刻化。翌々年正月増徴派による杢之助暗殺計画を知った数百人の農民が八幡(はちまん)城下(郡上市八幡町)に集結した。両派の対立は1683年(天和3)まで続いたが、切腹を含む61名の処罰者を出し、喧嘩(けんか)両成敗で終わった。
(2)宝暦(ほうれき)騒動 郡上藩主金森頼錦(よりかね)の代に起きた農民騒動。1754年(宝暦4)財政難に対処する検見取(けみどり)法の実施などに農民が反対、八幡城下に1000余人が集まり強訴を行った。いったんは要求が認められたが、翌年幕府の美濃郡代が羽島(はじま)郡笠松(かさまつ)の役所に郡上藩内の庄屋(しょうや)をよび、検見取の承諾を強制した。農民は郡上郡那留野(なるの)で傘連判(かされんぱん)し、代表を江戸に送り藩主に出訴、続いて前谷村貞次郎らは老中酒井忠寄に駕籠訴(かごそ)した。藩側は一揆(いっき)農民の切り崩しを図ったが、58年歩岐島(ほきじま)村四郎右衛門らは幕府評定所(ひょうじょうしょ)へ箱訴(はこそ)を決行し公儀による吟味を求めた。一方、郡上藩の預り地石徹白(いとしろ)村(白山(はくさん)下ノ神社領)でも、村を支配しようとする上村豊前(ぶぜん)と反対派杉本左近らの社人(しゃじん)間対立があり、1758年豊前派を支持する金森藩の非政に対して杉本派が箱訴した。結果、両騒動に幕府が介入、藩主頼錦の改易など藩側関係者のほか老中本多正珍(まさよし)ら幕府要人にまで処分が及び、一揆農民側も死罪14名を含む多数の処罰者を出した。
[村瀬円良]
『『岐阜県史 通史編・近世上』(1968・岐阜県)』