郡上藩(読み)ぐじょうはん

改訂新版 世界大百科事典 「郡上藩」の意味・わかりやすい解説

郡上藩 (ぐじょうはん)

美濃国郡上郡八幡郡上[市])に藩庁を置いた譜代中小藩。同郡と隣国越前大野郡に所領をもつ。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦で徳川方にくみした遠藤慶隆が故領2万7000石を安堵されたのがはじまり。3代常友の代に八幡町の整備拡充が進み,また幕府から,以前の城主格から城主として遇せられるようになった。4代常春治政下の77年(延宝5)に,年貢諸役軽減などをもとめる農民一揆が起こり,それに家中の分裂・抗争がからんで藩体制は動揺し,5代常久の代になっても藩政の混乱は続いた。92年(元禄5)遠藤氏にかわって5万石で入部した井上正任は,財政再建の一策として家臣の削減(人減し)を実施。金森氏(1697年入部,3万8000石)2代頼錦(よりかね)治政下の1754年(宝暦4)に,年貢増徴反対などの農民一揆と石徹白(いとしろ)の白山社人騒動が起きて,頼錦は所領没収,盛岡藩南部家へ永預に処せられた。この郡上一揆処分直後の58年に4万8000石で入部した青山幸道(よしみち)は,翌年に〈在々法令之条目〉〈在々御法度之覚書〉を公布して,徒党・直訴の禁止,謀書・謀判・落書・張紙の禁止をはじめ,山林原野の境界・入会地・用水などについてのしきたりの厳守と争論の禁止,農業出精,質流れ・潰(つぶれ)百姓の防止,年貢に関する詳細な規定や村入用の節減等々を令して,一揆によって動揺した支配を立て直そうとした。また,73年(安永2)に隣国飛驒で起きた検地反対の農民一揆(大原騒動)鎮圧に出兵。2代幸完(よしさだ)は幕府若年寄,寺社奉行,6代幸哉(ゆきしげ)も奏者番,寺社奉行などに任じられた。幸哉のとき財政窮乏が著しく,借財整理,生糸専売,米札発行などの安政改革が実施されたが不成功に終わる。7代幸宜(ゆきよし)のとき,大政奉還戊辰戦争を迎えたが,藩論一決せず新政府側に帰順すると決めた後も佐幕の動きがあり,江戸家老朝比奈藤兵衛の子茂吉を中心に44名が会津若松での戦いなどに参加した。これが凌霜隊であるが,新政府側が勝つのか反政府側が勝利するか不明であったため,どちらが勝っても対応できるための処置であったという説もある。
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百科事典マイペディア 「郡上藩」の意味・わかりやすい解説

郡上藩【ぐじょうはん】

美濃国郡上郡八幡(現岐阜県郡上市)に藩庁を置いた譜代(ふだい)中小藩で,八幡藩ともいう。関ヶ原の戦で徳川方にくみした遠藤慶隆が故領2万7000石を安堵されたのに始まる。三代常友の代に城下八幡町の整備が進み,また幕府から,城主格を改め城主として遇されることになった。4代常春治世下の1677年(延宝5)に年貢諸役軽減などを求める百姓一揆(延宝一揆)が起こり,家中の分裂抗争もからんで藩体制は動揺した。1692年遠藤氏にかわって井上正任(まさとう)が常陸国笠間(かさま)5万石から入部,財政再建のため家臣の削減を実施した。1697年金森氏が出羽国上山(かみのやま)から3万8000石で入部,2代頼錦(よりかね)治世下の1754年(宝暦4)に年貢増徴反対などの百姓一揆(郡上一揆・宝暦一揆)と越前国石徹白(いとしろ)の白山社人騒動(石徹白騒動)が起き,頼錦は1758年に所領を没収され,陸奥国盛岡藩南部家へ永預に処された。郡上一揆直後,丹後国宮津(みやづ)から4万8000石で入部した青山幸道(よしみち)は,翌年徒党・直訴の禁止,謀書・謀判・落書・張紙の禁止などをはじめとする諸令を発し,一揆によって動揺した支配を立て直そうとした。1773年には飛騨国で起きた検地反対の百姓一揆(大原騒動)の鎮圧に出兵した。2代幸完(よしさだ),6代幸哉(ゆきしげ)は幕府の要職を務め,7代幸宜(ゆきよし)のとき,大政奉還・戊辰戦争を迎えたが藩論一決せず,新政府側に帰順すると決まった後佐幕(さばく)派の動きもとった。
→関連項目八幡[町]

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藩名・旧国名がわかる事典 「郡上藩」の解説

ぐじょうはん【郡上藩】

江戸時代美濃(みの)国郡上郡八幡(はちまん)(現、岐阜県 郡上市八幡町)に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩(一時外様(とざま)藩)。藩校は潜竜館。1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦いで徳川方に与した遠藤慶隆(よしたか)が旧領2万7000石を安堵(あんど)され立藩した。遠藤氏は5代在封し、その3代常友(つねとも)のとき2人の弟への分与があり2万4000石となったが、城の大改修により、城主格から正式な城主として遇されることとなった。92年(元禄5)に5万石で井上正任(まさとう)が入封(にゅうほう)、井上氏2代を経て、97年に外様の金森頼旹(よりとき)が3万8000石で入った。その2代頼錦(よりかね)のとき、1754年(宝暦4)から4年にわたって増税に抗議する百姓一揆(郡上一揆)が起き、また預り地石徹白(いとしろ)村での神社の指導権をめぐる騒動もあり、頼錦は改易(かいえき)された。代わって58年に4万8000石で青山幸道(よしみち)が丹後(たんご)国宮津藩から入り、以後明治維新まで青山氏7代が続いた。幕末の戊辰(ぼしん)戦争で藩主は新政府に与したが、家老が幕府側にまわるなど、藩は混乱した。1871年(明治4)の廃藩置県により、郡上県を経て岐阜県に編入された。◇八幡藩ともいう。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「郡上藩」の意味・わかりやすい解説

郡上藩
ぐじょうはん

江戸時代、美濃(みの)国(岐阜県)郡上地方を主に領有した藩。初め遠藤慶隆(よしたか)が関ヶ原の戦い後2万7000石を得て立藩、八幡(はちまん)の城を修築した。5代常久の早逝で転封となり、その後井上氏を経て、1697年(元禄10)金森頼旹(よりとき)が入部。郡上郡内のほか越前(えちぜん)国(福井県)大野郡の内をあわせて3万9000石を領した。1758年(宝暦8)2代頼錦(よりかね)の代に、増税策の強行などが原因で起きた宝暦(ほうれき)郡上騒動と、預り地石徹白(いとしろ)村の社人騒動とによって、頼錦は改易された。のち青山氏が丹後(たんご)国(京都府)宮津から転封、やはり越前の采地(さいち)を含めて4万8000石を領し明治維新に至った。初代幸道(よしみち)は郡上騒動のあとを受け「在々法令之条目」を定めて青山藩制の確立を図った。6代幸哉(ゆきしげ)は行き詰まった藩財政打開に腐心し、生糸専売政策を断行、御趣法(ごしゅほう)騒動を引き起こしている。7代幸宜(ゆきのぶ)のとき、維新の進退に藩論が決せず、朝廷へ帰順の誓紙を出す一方、江戸藩邸では家老朝比奈(あさひな)藤兵衛の子茂吉を隊長とする凌霜(りょうそう)隊員44名が脱藩、幕軍とともに会津若松城に立てこもって敗れた。

[村瀬円良]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「郡上藩」の意味・わかりやすい解説

郡上藩
ぐじょうはん

八幡藩ともいう。江戸時代,美濃国 (岐阜県) 郡上郡におかれた藩。慶長5 (1600) 年稲葉貞通4万石が豊後 (大分県) 臼杵へ転出したあと遠藤慶隆2万 7000石が同国小原より転入。元禄5 (92) 年遠藤氏が常陸 (茨城県) 国内へ転出ののち,井上正任が常陸笠間より5万石で転入。同 10年井上氏は丹波 (京都府) 亀山へ転出し,金森頼とき (よりとき) 3万 8000石が出羽 (山形県) 上山より転入。金森氏は宝暦8 (1758) 年に除封され,代って青山幸道4万 8000石が丹後 (京都府) 宮津より転入し,廃藩置県にいたる。譜代,江戸城雁間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「郡上藩」の解説

郡上藩

美濃国、八幡(現:岐阜県郡上市)を本拠地とし、主に郡上地方を領有した藩。関ヶ原の戦いの際、徳川方についた遠藤慶隆が旧領を安堵され成立。歴代藩主はほかに井上氏、青山氏など。

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世界大百科事典(旧版)内の郡上藩の言及

【郡上一揆】より

郡上藩領でおきた一揆としては,延宝期の家中騒動のからんだ一揆と,宝暦期の一揆とがあるが,ふつうには後者をさす。 藩主金森頼錦(よりかね)治政下の1754年(宝暦4),年貢増徴のために採用しようとしていた検見取(けみどり)などに反対する一揆が発生した。…

※「郡上藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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