郡浦神社(読み)こおのうらじんじや

日本歴史地名大系 「郡浦神社」の解説

郡浦神社
こおのうらじんじや

[現在地名]三角町郡浦

郡浦の馬場ばばにあり、広い境内には石造五重塔などが残る。祭神は蒲智比命・健磐龍命・速瓶玉命・彦御子明神・神武天皇。旧郷社。天養元年(一一四四)阿蘇神主兼大宮司友孝が阿蘇より当地に遷座したというが(宝永元年一〇月一一日「阿蘇友隆書出シ」阿蘇家文書)当社祭神郡浦大明神は「阿蘇御母・甲佐宮祖母神」といわれており(正平一六年八月日「甲佐社牒写」同文書)、女神であることは明らかである。したがって「三代実録」元慶二年(八七八)九月七日条の「宇土郡正六位上蒲智比神社前河水変赤如血、縁辺山野草木悉凋沽、宛如厳冬」とある蒲智比神が郡浦大明神と結びつくものであろう。

久安六年(一一五〇)一月二三日の肥後国司庁宣写(阿蘇家文書)に、「管郡浦社」とみえ、これ以前に当社が存在したことが確認される一方、国衙管轄に属したことが知られる。その後、甲佐こうさ健軍けんぐん両社同様、阿蘇社の末社となったが、平安末から鎌倉初期の阿蘇社関係文書に当社の名がみえず、その阿蘇末社化は、他の二社よりも遅れたと考えられる。しかし、嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院御領目録(竹内文平氏所蔵文書)に「郡浦万里小路大納言入道」とみえ、当社はすでに阿蘇末社として王家領の中に組込まれており、本家安楽寿院、領家は村上源氏久我家流の万里小路大納言入道(北畠師親)であった。一方、地頭は阿蘇本社・健軍社・甲佐社とともに本補地頭として北条得宗家であったとみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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