郡浦庄(読み)こおのうらのしよう

日本歴史地名大系 「郡浦庄」の解説

郡浦庄
こおのうらのしよう

おおよそ宇土半島北部の宇土市長浜ながはま町から南部の宇土郡不知火しらぬひ松合まつあいを結ぶ線より西の半島の大部分戸馳とばせ島にまたがる。三角みすみ町郡浦に鎮座する郡浦神社(もと阿蘇末社)の社領。

〔成立〕

久安六年(一一五〇)一月二三日肥後国司源国能は「郡浦社領浦々村々」に対する近隣の有勢土民らの乱入を停止し、不輸の地として臨時雑役を免ずべきことを命じている(「肥後国司庁宣写」阿蘇家文書)。ここには四至として「東限 尾上直尾、南限 海戸中、西限 三角中上并中戸、北限 小松浦河流」とあり、この範囲は後代の史料に郡浦庄としてみえる地域と一致しており、郡浦社領はこの時期以前に成立していた。応永一一年(一四〇四)一〇月一〇日の肥後郡浦庄地検帳(同文書)によると総田数は二二九町七反四丈であり、大部分が小河川の流域に散在している。早くから開発が進んだものとみられ、これらは条里の里坪で表示されている。一九の里名があり、それに東・西・南・北を付した里が付随している。里名中、今日も地名として残るものは郡浦・山田やまだ里浦さとのうら矢崎やざき・戸馳・石打いしうち波多はた(以上現三角町)大見おおみ(現不知火町)網田おうだ打越うちごし赤瀬あかぜ(以上現宇土市)であり、底井は底江そこえに、古郡は古氷ふるこおりに、金北は金桁かなけたに、大多和は大田尾おおたおに、大多羅は小田良おだら(以上現三角町)に比定される。このほか、嶋野里は半島北岸の小松と浦の間に、土社里は現三角町中村なかむら下本庄しもほんじよう付近に比定され、仏坂は中村の中河原なかがわらに比定されている。

付属する東・西・南・北の里は、平安時代以降条里制施行域の周辺部を開拓し、一町ごとに区画して坪地名をつけたものであると思われる。当庄は山林と丘陵部が多い地形であり、弘安一〇年(一二八七)の肥後郡浦庄名寄帳(阿蘇家文書)に多量の現綿と桑代銭が徴されていることから、田地に匹敵する畠(畑)の存在が考えられるが、丈量した史料はない。同帳によると網田村・波多村大見村戸馳島の四ヵ村が別記載となっている(原本は上部を焼失し網田・波多の両村については「た」以下しかみえない)。いずれも郡浦社から遠隔の地域であり、社領の成立ちからいえば新庄的な存在の所ではなかったかと思われる。

〔領主〕

郡浦社は少なくとも久安六年以前に阿蘇末社になっているから、社領についても当然阿蘇社およびその預所・領家・本家の支配を受けることになる。阿蘇本末社(領)の本家は王家、領家は村上源氏、預所は建久五年(一一九四)以来北条氏であったから(阿蘇郡の→阿蘇庄、当庄は鎌倉時代、王家領であるとともに北条氏領でもあった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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