都窪郡
つくぼぐん
面積:二七・六七平方キロ
早島町・山手村・清音村
明治三三年(一九〇〇)都宇郡と窪屋郡が合併して成立。郡東部が旧都宇郡、西部が旧窪屋郡である。県南中央部に位置し、成立当時東は御津郡、西は浅口郡、南は児島郡、北は吉備郡に接したが、昭和三年(一九二八)倉敷町が市制を施行し、以後岡山・総社・倉敷各市へ編入され、現在は倉敷市によって郡は二分されて、ほかに岡山・総社両市、吉備郡真備町に接する。かつて当地域は高梁川と、足守川の東側を南北に流れていた旧高梁川分流の河道との間を占め、比較的低い備南台地と河川によって形成された沖積平野からなり、南部には中世末期からの干拓地が広がっていた。
〔原始―中世〕
旧都宇郡に属した倉敷市上東の弥生後期の大集落跡(上東遺跡)、同遺跡北側の丘陵地(倉敷市矢部・日畑西山)の弥生後期の巨大な墳墓(楯築遺跡)などの存在は当地域が早くから開けていたことをうかがわせる。また同じく旧都宇郡の岡山市新庄下に全国第四位の規模の造山古墳、旧窪屋郡の総社市三須字作山に作山古墳などがあり、古墳時代には吉備の中心地の一つであった。その後同古墳に隣接した総社市上林(旧窪屋郡)に備中国分僧寺・国分尼寺が建立されるなど、備中国の中心地としての位置を占めた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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