美作国衙跡に近い
当社の鎮座年代は不詳。一説には欽明天皇二五年ともいうが(総社旧記)、その根拠は不詳で、室町時代末期までの沿革は明らかでない。
吉備線東総社駅前にある。備中国内の神社三二四社の祭神を合祀する旧県社。「備中国総社記」によれば国中官社一八、田社(国司の神名帳記載社)二八六、境内末社一二、皇太神八。当社創建以前に「日本書紀」応神紀にみえる御友別の子孫が当地に移住し、国造となったものが沼田神社を建て県の総社とし、大化後に同地に備中国総社が創建されたという。惣社(総社)とは、国司が管内の諸社に巡拝し幣帛を奉る(これを神拝といった)煩を省くため、平安後期に至りこれを国衙近くに合祀したものというのが通説だが、惣社の惣とは一国の神事を惣領・惣宰することであり、惣社の役割はその神拝の中核となることにあったとし、合祀の契機は神拝の煩を省くためというより、国衙神事の執行に当たり管内諸神の合祀がはかられた結果とみる説もある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
岡山県の南部やや西寄りに位置する市。1954年(昭和29)吉備(きび)郡の総社町と、阿曽(あぞ)、池田、久代(くしろ)、山田、新本(しんぽん)の5村、都窪(つくぼ)郡常盤(ときわ)村が合併して市制施行。1972年に昭和町を編入。2005年(平成17)山手(やまて)、清音(きよね)の2村を合併。市名は、中心集落の総社に鎮座する備中(びっちゅう)総社宮に由来する。市域を高梁(たかはし)川が南東流し、南部は岡山平野の西部を占める。北部は吉備高原で、高梁川や支流の槇谷(まきだに)川はこの山地を深く下刻し、槇谷川は国指定名勝豪渓(ごうけい)をつくる。JR伯備線が高梁川左岸を走り、総社駅で吉備線と会合する。国道では180号が吉備線と総社駅以北の伯備線に沿うほか、429号と486号が市内を走る。また、市の東端近くに岡山自動車道岡山総社インターチェンジがある。1999年井原(いばら)鉄道が開通した。南部の三須(みす)から三輪の丘陵地には大規模な弥生(やよい)集落遺跡、作山(つくりやま)、こうもり塚(ともに国指定史跡)などの古墳群があり、なかでも三須の作山古墳は古代吉備国の代表的古墳の一つ。律令(りつりょう)期には備中国府が金井戸に置かれ、付近に国分寺、国分尼寺(ともに国指定史跡)、総社が置かれた。平野部には条里遺構が広く残っている。古代から中世には三須郷(ごう)はじめ多くの郷が置かれ、総社のあった八田部(やたべ)郷は門前町が形成された。中世には大半が荘園(しょうえん)化した。市の中心部を流れる十二ヶ郷用水(じゅうにかごうようすい)が開削されたのは平安末期のことといわれる。鎌倉期には井山(いやま)の宝福寺がこの地方の禅宗文化の中心となった。戦国時代には有力国人、土豪が支配し、高松城水攻めで敗れた清水宗治(しみずむねはる)もその1人であった。江戸時代には中心部は蒔田(まいた)氏浅尾藩の陣屋町、その他は岡山、松山などの諸藩の領地であり、明治時代には吉備郡役所が置かれた。遺跡、史跡が豊富で、市の南東部は吉備路風土記(ふどき)の丘県立自然公園、北東部は吉備史跡県立自然公園に指定されている。江戸時代に再興された備中国分寺の五重塔は県内唯一のものである。かつては備中売薬や鋳物業があり、中心の総社は商業中心地であった。産業は水田農業およびブドウ、モモ、イチゴなどの園芸農業がある。第二次世界大戦後は大日本紡績(現、ユニチカ)、水島機械金属工業団地(現、ウイングバレイ)、段ボール製造のレンゴー、カルピス食品工業(現、カルピス)などの工場が立地し、県下でも有数の内陸工業地域となっている。また岡山、倉敷両市のベッドタウンとしての宅地開発も盛んである。1993年には岡山県立大学が開学した。面積は211.90平方キロメートル、人口6万9030(2020)。
[由比浜省吾]
『『総社市史』全7巻(1985~1998・総社市)』
群馬県前橋市西部の地区。旧総社町。利根(とね)川の大渡(おおわたり)橋の西にあたる。国指定史跡の前方後円墳の二子山(ふたごやま)、方墳の宝塔山(ほうとうざん)・蛇穴(じゃけつ)山などの古墳群、山王塔(さんのうとう)跡や、国指定重要文化財の上野(こうずけ)国山王廃寺塔(さんのうはいじとう)心柱根巻石(しんばしらねまきいし)があって、古代の遺跡に富み、中世には総社城があった。いまは養蚕のほか、第二次世界大戦後に木製玩具(がんぐ)製造から転じたこけし製造が盛んなうえ、日本製線、日新電機などの工業団地ができ、南方の元総社(もとそうじゃ)に古代上野総社にちなむ総社神社がある。JR上越線、国道17号が通じる。
[村木定雄]
「そうじゃ」ともいい、惣社とも書く。一定の地域内に鎮座している神社の祭神を勧請(かんじょう)して、特定の一神社に合祀(ごうし)し、その地域の集約的な祭祀を行うものとされる神社。一郡、一郷の総社もあるが、一般的には一国の総社をいう。一国の総社の成立はかならずしも明確ではないが、国司が班幣その他の祭祀にあずかる国内の主要な神社を巡拝するかわりに、便宜上、国府の近くに勧請・合祀して祭祀したものといわれ、平安中期ごろに発生したと考えられている。平安末期には一般化して国司の祀(まつ)る神社として、一宮(いちのみや)または六所(ろくしょ)神社、大国魂(おおくにたま)(霊)神社とよばれる神社とも関連が深く、地方神社の中心として格別の尊崇を受けた。総社の社名を有する神社としては石岡総社神社(常陸(ひたち)国―茨城県石岡市)、上野(こうずけ)総社神社(上野国―群馬県前橋市総社町)、総社(三河(みかわ)国―愛知県豊川(とよかわ)市白鳥町)、総社(能登(のと)国―石川県七尾(ななお)市古府町)、総社大神宮(越前(えちぜん)国―福井県越前市幸町)、飛騨(ひだ)総社(飛騨国―岐阜県高山市神田町)、総社(美作(みまさか)国―岡山県津山市総社)、総社(備中(びっちゅう)国―岡山県総社市総社)などがある。
[佐野和史]
岡山県南部の市。2005年3月旧総社市と清音(きよね)村,山手(やまて)村が合体して成立した。人口6万6201(2010)。
総社市南端の旧村。旧都窪(つくぼ)郡所属。人口5652(2000)。高梁(たかはし)川下流東岸に位置し,北は旧総社市,南は倉敷市に接する。北西部には高梁川のはんらん原の平たん地が開け,南東部は山地が占める。役場のある軽部はかつて高梁川の中州であった。高梁川に沿ってJR伯備線が通り,井原鉄道井原線と共用の清音駅は伯備線中屈指の乗降客を有する。水田耕作を中心とする純農村であったが,水島臨海工業地域の発展に伴い兼業化が進み,都市近郊型農業に変わりつつある。
執筆者:上田 雅子
総社市の大部分を占める旧市。1954年総社町と阿曾(あぞ),池田,久代(くしろ),山田,新本(しんぽん),常盤の6村が合体,市制。人口5万6531(2000)。岡山平野北西部と吉備高原南部を占め,高梁川が南流する。岡山市とともに古代吉備文化の中心地で,作山(つくりやま)古墳,備中国分寺(江戸時代の再建),備中国分尼寺跡,備中国府跡,備中総社宮などがあり,岡山市西部とまたがる吉備路風土記の丘県立自然公園に指定されている。古代から中世には三須郷,阿曾郷など多くの郷が置かれ,中世に大半が荘園化した。高梁川から取水し,市の東半を貫流する十二ヶ郷用水は,平安末期にはすでに通じていたという県最古の用水である。鎌倉時代,宝福寺は禅文化の中心になり,室町期には雪舟がここで修行した。江戸時代は各藩に分割されていた。第2次大戦以前は織物と備中売薬が特色であったが,戦後はユニチカ,カルピス食品工業などが立地し,水島機械金属工業団地が造成されて内陸工業地域化し,その後,ユニチカは閉鎖した。岡山市に至るJR吉備線と倉敷市に至るJR伯備線の分岐点として交通の便がよく,両市にも近いので都市化が進行中である。岡山自動車道のインターチェンジがある。1993年岡山市にあった県立短大は総社市に移転して県立大学となった。
執筆者:由比浜 省吾
総社市南東端の旧村。旧都窪郡所属。人口4018(2000)。岡山市,倉敷市,旧総社市に接し,岡山平野の一角をなす。遺跡や史跡が多く,北隣の旧総社市とともに吉備文化の中心といわれ,村名は古代国府のあった旧総社市からみて山の方に位置していたことに由来する。北部を東西に旧山陽道が通る。農業が基幹産業で,米作,施設園芸,イグサ栽培を中心とするが,近年は都市近郊型農業の比重が増し,特にセロリの産が多い。備中国分尼寺跡(史),福山城跡があり,吉備路風土記の丘県立自然公園に含まれる。
執筆者:上田 雅子
多くの神社の祭神を,一所に勧請(かんじよう)しまつった神社のこと。古代国郡制の国で,その国内神社祭神を一所に勧請し,まつった諸国総社のほか,寺院内に設けられた総社,また有力氏族の邸内に設けられた総社などがある。その創立年代,またその理由,ともに不詳であるが,《中右記》《明月記》《百練抄》などにその名称がみえはじめることから,古代末期の創立とみられる。諸国の総社はそのほとんどが,国衙に近い地に存在することから,古代律令制時代には国司は国内の国幣社ほかいくつかの神社をまつる義務をもっていたが,律令体制のゆるみとともに,その国内各社に行かず,便宜国衙に近い所に諸社をあわせ勧請し,そこで祭祀したことに始まるとする説と,逆に不安な世情のなかで,諸社にあわせ祈願するため設けたとみる説などがある。そして,このような社に庶民も多く参詣したことで,有力寺院内あるいは有力氏族の邸内などにも設けられたものとみられる。
執筆者:鎌田 純一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
惣社とも。多くの神社の祭神を1カ所に勧請して祭った神社の称。一般には一国の総社をいう。一国の総社は,国司の巡拝・奉幣の便宜のため一宮・二宮以下国内の諸神を集めて祭ったのに始まるといわれる。総社は国府の近くにおかれ,国司の着任儀礼や朔幣,国内神名帳の奉読などの国衙(こくが)神事を行い,在庁官人・国人層結集の精神的支柱としての役割を担った。神領・神官の進退権は国衙在庁がもち,国衙在庁機構の一環を構成するとともに国鎮守とされた。初見は「時範記」康和元年(1099)2月15日条の因幡国の総社で,11世紀後半には総社制の実体が備わっていたと考えられる。ほかに一郡・一郷の総社や寺院内の総社,有力氏族邸内の総社などがある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…岡山県南部の市。1954年総社町と阿曾(あぞ),池田,久代(くしろ),山田,新本(しんぽん),常盤の6村が合体,市制。人口5万6097(1995)。…
… 国司は任国に着くと,まず国内の主要な神社に参詣し,その後政務を執るように定められているが,その参拝の順序が固定して一宮(いちのみや),二宮,三宮の呼称がおこり,それが国内の神社の序列をあらわすことになった。さらに平安時代の末になると,国内の数々の神社を一社に統合して奉幣を簡略にすることもはじまり,そうした神社を総社(そうじや)と呼んだ。同じころ,朝廷でも重要な祈願に際して,畿内を中心に主要な神社を選んで奉幣することがはじまり,二十二社(にじゆうにしや)の名が固定した。…
※「総社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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