下津井(読み)しもつい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「下津井」の意味・わかりやすい解説

下津井
しもつい

岡山県南部、倉敷(くらしき)市の一地区。旧下津井町。児島(こじま)半島南端にあり、古来、下津井四ヶ浦(下津井、吹上(ふきあげ)、田之浦、大畠(おばたけ))とよばれた。瀬戸内海航路の要地で、1606年(慶長11)池田長政(ながまさ)(1589―1634)が下津井城を再建してから大いに発展し、北前船(きたまえぶね)の寄港地、漁港、四国金刀比羅宮(ことひらぐう)への参詣者の利用港として知られた。港を歌った『下津井節』は岡山県の代表的民謡。下津井祇園(ぎおん)神社は海運、海事資料を多く保存している。瀬戸大橋の完成後、四国との基幹交通路は宇高連絡船から本州四国連絡橋に移っていて、児島―坂出(さかいで)ルートの下津井瀬戸大橋が田之浦地区背後の鷲羽(わしゅう)山付近から櫃石島(ひついしじま)に架かり、さらに四国方面へ通じている。

[由比浜省吾]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「下津井」の意味・わかりやすい解説

下津井 (しもつい)

備前国(岡山県)児島郡南端の港町。現在は倉敷市下津井。古くから海運・軍事の要地で,16世紀末には宇喜多氏の城砦があり,1606年(慶長11)岡山藩家老池田長政が近世城郭に改築してから町は大いに発展した。江戸初頭に岡山藩公定の13の在町の一つとなり,商港,漁港として,また金毘羅(こんぴら)往来の渡海場として繁昌した。明和年間(1764-72)家数661軒,人数2950人,田畑20町歩,船数177艘であった。田畑が少なく人口稠密で,中下層民に漁業者は多いが,全体として商業に依存した。商業は遠隔地との中継交易が主で,北前船の鰊粕(にしんかす),米などを扱った。1891年山陽鉄道の開通以後,港町として漸次衰微し,漁師町としての特色を現した。1948年周辺町村と合体して児島市となったが,67年倉敷市に合体した。鷲羽(わしゆう)山を中心とする観光地として浮上し,本州四国連絡橋下津井瀬戸大橋架橋で脚光を浴びている。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「下津井」の意味・わかりやすい解説

下津井
しもつい

岡山県南部,倉敷市南部の地区。児島半島南西端に位置する。旧町名。 1948年合体により児島市,67年倉敷市となる。戦国時代から瀬戸内海航路の要港となり,近世には讃岐の金刀比羅宮の参詣者の乗船場としても繁栄汽船発達で商港の機能を失ってからは漁港となった。現在は香川県丸亀市へ定期フェリーが運航瀬戸大橋 (瀬戸中央自動車道) の岡山県側の基地。東方に景勝の鷲羽山 (133m) があり,瀬戸内海国立公園に属する。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の下津井の言及

【児島半島】より

…《古事記》の国生み神話に〈吉備児島〉とあるように16~17世紀まで島であったが,高梁(たかはし)川,旭川などの堆積作用と,浅くなった海の干拓により本土と結びついた。半島になってからは瀬戸内海航路が南岸へ移り,下津井,日比(ひび)が港町として栄えた。大部分が山地で,東部にある主峰金甲山(403m),中部の常山(307m)などの古生層から成る中起伏の山地と,花コウ岩や流紋岩から成る標高200~270mの小起伏の山地,および標高150~190mの丘陵から成る。…

※「下津井」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android