厳密にその地域を確定することはできないが、一般に美作・備前・備中・備後の地域とし、現在の岡山県全域と広島県東部地域と考えられている。この地域は瀬戸内海に面して温暖な気候と肥沃な平野に恵まれ、原始・古代から農業はもとより各種の産業の発達した先進地域の一つであった。この地域が吉備国としてのまとまりを示した時期は三期あり、それぞれに歴史的内容を異にしている。
最初の時期は弥生時代後期である。一般に弥生後期は地域的特徴をもった首長墓制の出現する時期で、吉備地域では首長の葬送儀礼に特殊器台形土器・特殊壺形土器が用いられたことが特徴的である。出土遺跡の分布をみると、備中南部二五、備中北部五、備前八、美作七、備後三で、東接する播磨、西接する安芸、北接する因幡・伯耆からはまったく出土しない。このことは首長に対する葬送儀礼の共通という形態をもった首長相互間の地域的結合関係の存在したことを示している。このような結合関係のなかで備中南部が中心的位置を占めたことは遺跡数からも明らかであるが、とくに
このような弥生後期の首長墓制は、三世紀末ないし四世紀初めに大和に発生した古墳によって取って代わられ、全国的に古墳時代に入る。吉備地域でも同様であるが、最古期の古墳について次の二つの事柄に注目する必要がある。一つは、弥生後期に生れた吉備地域での葬送儀礼にかかわる特殊器台形土器と特殊壺形土器が、最古期の大和に発生した古墳のなかに、特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪として取入れられていることで、その事例を
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岡山県と広島県東部を含む歴史地名で,律令制下の備前,備中,備後,美作を中心とする地域。文献上の初見は記紀の国生み神話に吉備児島(子洲)とあるもの。弥生期の土器に共通の文化相もみられるが,いつごろなぜ吉備と称したかは不明。弥生後期になると,楯築墳丘墓のような大規模な円丘と左右に方形の張出し部をもつ首長墓も造られ,政治的統一もすすんだ形跡がある。吉備に発生した特殊器台形土器は出雲にも分布するが,奈良県東南部の成立期の前方後円墳にも見られ,これが円筒埴輪に発展する。これらのことから,弥生後期には備前・備中の南部平野部を中心に政治圏が成立し,それが大和の勢力とも一定の関係をもっていたことが知られる。古墳時代に入ると,主として5世紀代に畿内とならぶ大古墳を営造する。全長100m以上の前方後円墳は18基あり,うち造山古墳は350mで全国第4位,作山古墳は270mで第13位の規模をもち,その政治権力の強大さを物語る。これらの大古墳は邑久・砂川流域,旭川流域,笹ヶ瀬川・足守川流域,総社地域に集中するが,その他の河川流域の小盆地にもそれぞれの首長墓が営まれた。文献には吉備勢力の活躍を伝える記事が少なくない。《日本書紀》崇神10年条の四道将軍の一人として吉備に派遣されたという吉備津彦も,その人名からすると吉備の代表的王者であった可能性があり,景行(天皇)や日本武(やまとたける)は婚姻を通じて吉備と密接な関係にあった,と考えられる。《日本書紀》雄略7年条には吉備下道前津屋(さきつや),吉備上道田狭(たさ),清寧即位前紀には吉備稚媛の子の星川皇子の反乱の伝承があり,いずれも王権奪への志向性が認められ,吉備勢力の強大さを物語る。その政治構造については,巨大古墳の分布状況から,各地域に本拠をもつ大首長が輪番的に最高首長の地位についたのではないかと推定されている。
吉備勢力が強大になりえた理由としては,中国山地が優良な砂鉄の産地であることから鉄生産を掌握したこと,瀬戸内沿岸で盛んであった塩生産を押さえたこと,8世紀諸史料から多数の渡来人の存在を復元しうることから,朝鮮の先進文明の摂取に積極的であったこと,などをあげることができよう。さきの反乱伝承がいずれも吉備勢力の敗北に終わったとあることに象徴されるように,6世紀以降には畿内勢力の支配権が浸透する。吉備全域に濃厚な部民の分布を復元しうること,児島屯倉(みやけ)と白猪(しらい)屯倉が設置されること,大王家に直属する県(あがた)が約10ヵ所もおかれ,《国造本紀》によると吉備地域に9国造が置かれて吉備勢力の分断がはかられることなどが,それを示す。大化改新後700年(文武4)まで吉備全域と播磨を含む統轄官として吉備大宰が置かれたが,壬申の乱後に備前,備中,備後の3国,713年(和銅6)に備前から美作が分立し,政治組織としても一体性を失った。757年(天平宝字1)に上道斐太都(ひだつ)に吉備国造の称号が付与されたのが,かつての吉備の一体性を伝える最後の事例である。
執筆者:吉田 晶
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和歌山県中北部、有田郡(ありだぐん)にあった旧町名(吉備町(ちょう))。現在は有田川町の西部を占める地域。旧吉備町は、1955年(昭和30)藤並(ふじなみ)、田殿(たどの)、御霊(ごりょう)の3村が合併、町制を施行して成立。2006年(平成18)金屋(かなや)、清水(しみず)2町と合併し、有田川町となる。『和名抄(わみょうしょう)』の吉備郷の地で、旧町名はこれによる。JR紀勢本線、国道42号、480号、阪和自動車道、湯浅御坊道路が通じる。1915年(大正4)開通の有田鉄道は2003年1月廃止。有田川下流の氾濫原(はんらんげん)に位置し、北部と南部は山地である。河口の有田市に続く有田ミカンの特産地で、奥には県立果樹試験場がある。連歌師(れんがし)宗祇(そうぎ)屋敷跡(県史跡)や明恵(みょうえ)紀州遺跡卒塔婆(そとうば)(国史跡)に含まれる神谷(かみたに)遺跡、明恵上人ゆかりの法蔵寺などがある。
[小池洋一]
『『吉備町誌』2冊(1980・吉備町)』
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…《延喜式》では播磨,美作,備前,備中,備後,安芸,周防,長門の8国が属するが,このうち美作は713年(和銅6)に備前より分立した。また備前,備中,備後,美作の4国は,古くは吉備と呼ばれ大和朝廷に対し一大勢力圏を形成していた。山陽道の成立時期は不明だが,685年(天武14)に佐味少麻呂が山陽使者として派遣されたことが知られるので,天武朝末年に成立したとみられる。…
…【岡市 友利】
〔歴史〕
【古代】
瀬戸内海は縄文・弥生時代において北九州と畿内を結ぶ政治・文化の交通に重要な役割を果たしていたと思われるが,大和政権が国内を統一し,対外交渉を行っていく4世紀段階になると,さらにその重要性を増した。内海地域の政治勢力の中心の一つは吉備(きび)であり,その勢力は備前,備中,備後,美作(みまさか)や小豆島をはじめとする内海の島々におよび,海上交通の拠点を押さえていた。吉備は大和政権に早くから服属し,積極的に朝鮮経営に参加した。…
※「吉備」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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