野々上村(読み)ののうえむら

日本歴史地名大系 「野々上村」の解説

野々上村
ののうえむら

[現在地名]羽曳野市野々上一―五丁目・伊賀いが二丁目・はびきの一丁目・同四丁目

丹南郡に属し、南東の古市郡軽墓かるはか村に通じる竹内たけのうち街道沿いに集落がある。北部の野中やちゆう寺北方を、古代丹比たじひ道が通ったと想定されている。「新撰姓氏録」(河内国諸蕃)に「野上連 河原連同祖、陳思王植之後也」とみえ当地を本貫とする野上氏の存在が考えられる。

宝暦(一七五一―六四)野中のなか(現藤井寺市)より一部を割いて成立したという説(大阪府全志)もあるが、正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳に野々上村三〇七石がみえ、以降の郷帳類にも村名が載る。


野々上村
ののうえむら

[現在地名]富山市野々上

射水平野南東部にあり、西を鍛治かじ川が北流する。射水郡に属し、東は富山藩領の婦負郡二ッ屋ふたつや村、南西願海寺がんかいじ村。往古当地は野で、村名はその上に村立てしたことに由来すると伝え(越中志徴)、野ノ上・野上とも記された。加賀藩領で、文政八年(一八二五)には倉垣組、天保一〇年(一八三九)以降は上倉垣組に属した。正保郷帳では高一九九石余、田方一一町六反余・畑方一町六反、新田高八六石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高三〇五石・免四ツ、小物成は野役二一匁(退転)、川役一匁(三箇国高物成帳)。元文元年(一七三六)一〇石の手上高、同四年六石の新開などがあり、寛保二年(一七四二)の草高三一一石・免四ツで、散小物成一匁。


野々上村
ののうえむら

[現在地名]山崎町野々上

揖保いぼ川の中流左岸に位置し、南西は岸田きしだ村。慶長国絵図に村名がみえる。初め姫路藩領、慶長一八年(一六一三)備前岡山藩領(「寛政重修諸家譜」など)、元和元年(一六一五)山崎藩領(「寛文朱印留」など)、延宝七年(一六七九)幕府領(「本多家譜」東京大学史料編纂所蔵など)、延享元年(一七四四)大坂城代堀田正亮(出羽山形藩)領、同三年幕府領(「天保校訂紀氏雑録」日産厚生会佐倉厚生園蔵など)、明和六年(一七六九)尼崎藩領となり幕末に至る(岡本家文書・旧高旧領取調帳など)。正保郷帳には野之上村とみえ、田方二〇八石余・畠方一二六石余。


野々上村
ののうえむら

[現在地名]二戸市野々上 外山そとやま長久保ながくぼ柳沢やなぎざわ沼久保ぬまのくぼそでさわ

金田一きんだいち村の北西海上かいしよう川右岸下流域に位置する。正保国絵図に村名がみえ、高一三八石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付には蔵入高一八八石余とあり、七ヵ年平均の免一ツ五分四厘四毛。元禄十郡郷帳による〆高は田方八一石余・畑方一八二石余、当村へ海上村が入るとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android