日本歴史地名大系 「羽曳野市」の解説 羽曳野市はびきのし 面積:二七・〇〇平方キロ大阪府の南東部にあり、北は柏原(かしわら)市・藤井寺市、西は松原市、西から南は南河内郡美原(みはら)町、南は富田林(とんだばやし)市・南河内郡太子(たいし)町、東は奈良県北葛城(きたかつらぎ)郡香芝(かしば)町。羽曳野丘陵北辺の台地上に位置し、丘陵の東側を石川がほぼ北流する。石川谷の東はなだらかな丘陵と谷間が続いて二上(にじよう)山系に至り、石川には二上山系の水を集めた飛鳥(あすか)川が合流する。丘陵西側には南河内郡狭山(さやま)町の狭山池に源を発する東除(ひがしよけ)川が北流。市域の東部は金剛生駒国定公園に含まれる。羽曳野の名は日本武尊の白鳥伝説にちなむ。「日本書紀」景行天皇四〇年条に、伊勢能褒野(のぼの)陵に葬られた日本武尊が白鳥と化して大和・河内に飛び、降り立った大和の琴弾原(ことひきはら)と河内の古市(ふるいち)に陵墓が造営されたと記す。書紀では白鳥はここで天に上るが、当地の白鳥(しらとり)神社の縁起や堺市大鳥(おおとり)神社の縁起によると、白鳥はさらに埴生(はにう)の丘を羽を曳くがごとく西に飛び、和泉大鳥の地にとどまってやがて天高く飛び消え去った。このため古市西方の埴生の丘を「羽曳野」あるいは「羽曳山」とよぶようになったという。この白鳥にちなむ地名伝承の形成された時期は不明であるが、江戸時代中期の埴生野新田関係文書(西山家文書)のなかに「羽曳原」とみえる。〔原始・古代〕市域とその近辺に人々が居住し始めたのは、ほぼ二万年前の旧石器時代末期とされる。近畿の旧石器時代遺跡としては藤井寺市の国府(こう)遺跡が有名で、二上山系から産出するサヌカイトを利用し、翼状剥片をもとにナイフに仕上げられた石器が大量に検出された。この石器群が流布した時期を国府期・国府文化期とよび、当地の飛鳥の春日(かすが)山西山麓の今池(いまいけ)・新池(しんいけ)遺跡が、国府遺跡出土石器の材料採取地ならびに製作所跡であることが確認された。縄文期の遺跡としては東阪田(ひがしさかた)遺跡があり、弥生時代に入ると壺井(つぼい)・喜志(きし)・東阪田・尺度(しやくど)・蔵之内(くらのうち)・高屋(たかや)・五十村(いぶら)(駒ヶ谷)などの遺跡が石川流域に分布する。このうち壺井遺跡が最も古く弥生中期、その他はいずれも弥生後期の集落遺跡。西浦(にしうら)小学校校地からは銅鐸が発見されている。壺井の御旅山(おたびやま)、誉田の双(こんだのふた)つ塚(づか)などは前期古墳で四世紀の築造と推定される。五世紀に入ると全長二〇〇メートルを超える巨大古墳が築造される。堺市の大仙(だいせん)古墳(仁徳天皇陵に治定)と並び著名な誉田御廟山(こんだごびようやま)古墳(応神天皇陵に治定)は、市域北西部から藤井寺市にかけて分布する古市古墳群中最大で全長四一五メートルに及ぶ。その陪冢とされる墓山(はかやま)古墳も二二四メートル。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「羽曳野市」の意味・わかりやすい解説 羽曳野〔市〕はびきの 大阪府南東部,大和川支流の石川流域の市。1956年古市町,高鷲町,西浦村,埴生村,駒ヶ谷村,丹比村(たんぴむら)が合体して南大阪町が成立。1959年市制,羽曳野市に改称。羽曳野丘陵と石川の河谷平野を占める。中心市街地の古市は竹ノ内街道と東高野街道(→高野街道)の交差地点に発達。大正末期から大阪鉄道沿線が宅地開発され,第2次世界大戦後は西の羽曳野丘陵にも及び,大阪市のベッドタウンになった。農村部ではブドウ,イチジクなどの果樹栽培のほかワインの醸造も行なわれる。北部の藤井寺市にまたがる古市古墳群は古墳文化の一中心地で,国の史跡である応神天皇陵(誉田御廟山古墳)をはじめ数多くの古墳が点在し,2019年世界遺産の文化遺産に登録された。国宝を所蔵する誉田八幡宮のほか,野中寺,西琳寺などの古社寺もある。東部山麓は金剛生駒紀泉国定公園に属する。国道166号線,170号線,近畿日本鉄道南大阪線が通じ,古市で長野線が分岐する。面積 26.45km2。人口 10万8736(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by