日本大百科全書(ニッポニカ) 「北条氏規」の意味・わかりやすい解説
北条氏規
ほうじょううじのり
(1545―1600)
1545年(天文14)に戦国大名北条氏康(うじやす)の五男として誕生。母今川氏親(いまがわうじちか)娘。通称助五郎。官途左馬助、受領名美濃守。少年期、人質として今川氏のもと駿府に滞在、同じく人質であった松平竹千代(のちの徳川家康)と知己をえるという。1567年(永禄10)には、相模国玉縄(たまなわ)城主で同国三浦郡などを支配していた北条為昌(ためまさ)の女婿として、同郡の支配を継承し三崎城主となる。その立場で梶原氏などの海賊衆を支配下に置き、江戸湾の海上防備にあたるとともに、里見氏などの房総方面の諸氏に対処した。1569年以降北条氏滅亡の1590年まで、伊豆国韮山城(にらやまじょう)に城将として断続的に在城し、対武田氏や豊臣氏の侵攻に対応した。また、天正年間中期には一時的に上野国(こうずけのくに)館林城(たてばやしじょう)の城代でもあった。外交的には少年期の関係で徳川氏や、また豊臣氏との折衝の任にあたった。北条氏滅亡後、河内国に所領を与えられ、嫡男氏盛が狭山藩(さやまはん)北条氏を継承している。没年は1600年(慶長5)で56歳であった。現在、印文「真実」の朱印状をはじめ書状、判物など80通ほどの発給文書を残している。
[有光友學]
『杉山博著「北条氏規の発給文書について」(東国戦国史研究会編『戦国史論集 関東中心』所収・1980・名著出版)』▽『黒田基樹著「北条氏規の三浦郡支配の成立」(『戦国大名北条氏の領国支配』所収・1995・岩田書院)』▽『黒田基樹著「北条氏規文書の考察」(『戦国大名領国の支配構造』所収・1997・岩田書院)』▽『黒田基樹著「北条氏の上野館林領支配」(『戦国期東国の大名と国衆』所収・2001・岩田書院)』