コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

北条氏規 ほうじょううじのり

5件 の用語解説(北条氏規の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

北条氏規
ほうじょううじのり

[生]天文14(1545)
[没]慶長5(1600).2.8. 大坂
戦国時代,伊豆韮山の城主。美濃守。氏康の子。法号一睡院勝誉早円。武田氏としばしば戦い,天正 10 (1582) 年には後北条氏徳川家康の講和に使者の役目を果し,また秀吉の関東統一に際しては,後北条氏のために大坂におもむき和解に活躍。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

北条氏規 ほうじょう-うじのり

1545-1600 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)14年生まれ。北条氏康(うじやす)の4男。伊豆(いず)韮山(にらやま)城(静岡県)城主。天正(てんしょう)16年豊臣秀吉との講和の使者をつとめる。秀吉の小田原攻めでは韮山城をまもったが,徳川家康の勧めで開城。小田原落城後,高野山にはいったが,19年秀吉から河内(かわち)(大阪府)に所領をあたえられた。慶長5年2月8日死去。56歳。通称は助五郎。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

北条氏規

没年:慶長5.2.8(1600.3.22)
生年:天文14(1545)
戦国・安土桃山時代の武将。相模三崎城(神奈川県三浦市)城主,伊豆韮山城(静岡県韮山町)城主。氏康と今川氏親の娘の子。通称助五郎。左馬助,美濃守。今川氏への人質として少年期を過ごした駿府で徳川家康と知り合う。永禄(1558~70)初めごろ小田原に帰り,のち玉縄城主北条綱成の娘を妻とし相模三浦郡を支配,三崎城主となる。永禄12年以降の武田氏の駿河侵攻時には韮山城主の地位にあった。豊臣秀吉との交渉のため,天正16(1588)年8月に上洛。同18年の小田原の陣では韮山城を守ったが,家康の勧告を容れて開城,北条氏を降伏に導いた。北条氏直に従って高野山に入るが,翌19年秀吉から河内に所領を与えられ,大坂で死去。家康との旧知の間柄を生かして外交折衝に活躍した。

(佐脇栄智)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

ほうじょううじのり【北条氏規】

1545‐1600(天文14‐慶長5)
安土桃山時代の武将。氏康の四男。伊豆国韮山(にらやま)城主。1570年(元亀1)同城に拠って武田氏を撃退。82年(天正10)甥氏直と徳川家康との講和の使者となり,88年豊臣秀吉との講和の使者も務めた。90年秀吉の小田原征伐では,韮山城に拠ってよく防いだが,6月家康の勧告で開城。小田原落城後高野山に赴いたが,秀吉に召し出され,河内国で6980石余を宛て行われた。【下村 信博】

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

北条氏規
ほうじょううじのり
(1545―1600)

1545年(天文14)に戦国大名北条氏康(うじやす)の五男として誕生。母今川氏親(いまがわうじちか)娘。通称助五郎。官途左馬助、受領名美濃守。少年期、人質として今川氏のもと駿府に滞在、同じく人質であった松平竹千代(のちの徳川家康)と知己をえるという。1567年(永禄10)には、相模国玉縄(たまなわ)城主で同国三浦郡などを支配していた北条為昌(ためまさ)の女婿として、同郡の支配を継承し三崎城主となる。その立場で梶原氏などの海賊衆を支配下に置き、江戸湾の海上防備にあたるとともに、里見氏などの房総方面の諸氏に対処した。1569年以降北条氏滅亡の1590年まで、伊豆国韮山城(にらやまじょう)に城将として断続的に在城し、対武田氏や豊臣氏の侵攻に対応した。また、天正年間中期には一時的に上野国(こうずけのくに)館林城(たてばやしじょう)の城代でもあった。外交的には少年期の関係で徳川氏や、また豊臣氏との折衝の任にあたった。北条氏滅亡後、河内国に所領を与えられ、嫡男氏盛が狭山藩(さやまはん)北条氏を継承している。没年は1600年(慶長5)で56歳であった。現在、印文「真実」の朱印状をはじめ書状、判物など80通ほどの発給文書を残している。[有光友學]
『杉山博著「北条氏規の発給文書について」(東国戦国史研究会編『戦国史論集 関東中心』所収・1980・名著出版) ▽黒田基樹著「北条氏規の三浦郡支配の成立」(『戦国大名北条氏の領国支配』所収・1995・岩田書院) ▽黒田基樹著「北条氏規文書の考察」(『戦国大名領国の支配構造』所収・1997・岩田書院) ▽黒田基樹著「北条氏の上野館林領支配」(『戦国期東国の大名と国衆』所収・2001・岩田書院)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

北条氏規の関連キーワード池田秀雄道恵文閑細川玄旨山岡如軒安土桃山時代塙団右衛門横目付伊勢・安土桃山文化村内ケ島氏理

今日のキーワード

大統領補佐官

各種政策の立案その他に関し,側近として大統領に助言する役職だが,実質上はブレーン,顧問として多面的な役割を担う。憲法で定められた唯一の行政責任者である合衆国大統領は,強大な権力を持つにもかかわらず,議...

続きを読む

コトバンク for iPhone

北条氏規の関連情報