日本歴史地名大系 「野倉村」の解説 野倉村のぐらむら 長野県:上田市塩田地区野倉村[現在地名]上田市大字野倉上田市塩田地区の西南端、女神(めがみ)岳の南麓、標高七〇〇メートル前後の高地にある集落。東は手塚(てづか)村、南は市(いち)峠を越して内(うち)村、西は大明神(だいみようじん)岳を隔てて沓掛(くつかけ)村、北は別所(べつしよ)村に接する。中世信濃の一文化の中心地であった塩田と松本を結ぶ道が通っていた。初見は、真田氏支配の天正一九年(一五九一)成立の野倉村惣帳である。また、慶長一三年(一六〇八)上田領の貫高帳(大井文書)に「四拾五貫文 野蔵」とみえており、元和八年(一六二二)の上田領高石帳(若林勅滋氏蔵)では「四拾五貫文、高百拾壱石壱斗五升 野倉村」とあり近世を通じての貫(石)高となった。 野倉村あしのくらむら 茨城県:久慈郡大子町野倉村[現在地名]大子町芦野倉押(おし)川の支流初原(はつばら)川の下流域にあり、北は初原村。「新編常陸国誌」に「慶福寺永享八年棟札ニ、奥州寄神保内芦野倉トアリ」とみえ、慶長二年(一五九七)の旦那職之事(吉成勤氏蔵)には「足蔵并はなハ之村旦那職」とある。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高には「芦倉村」とみえ、同一五年の御代官郷高帳(「田制考証」所収)の村々高寄新家惣右衛門分に「芦野倉村」とある。「新編常陸国誌」によると天保一三年(一八四二)の検地では田畠七二町余、分米六九〇石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報