江戸中期の俳人。姓は志太(しだ),のち竹田。通称は弥助。越前福井の人。江戸の越後屋に奉公し,両替店の手代などを勤める。はじめ其角に師事し,1687年(貞享4)ごろ野馬の号で蕉門に登場するが,以後動静不明。93年(元禄6)から芭蕉に親炙(しんしや)し,翌年,孤屋,利牛と《炭俵》を共編,〈軽み〉の人事句で認められる。元禄末年ごろ俳諧宗匠となり,1704年(宝永1)大坂に移り,樗木社,浅生庵,無名庵高津野々翁などと号し,西国俳壇の経営に乗り出し,門下1000余人を有し,二十数編の俳書を後見した。ほかに《万句四之富士》《放生日》《六行会》などの編著があり,没後の句集に《野坡吟草》がある。忌日は1月3日,墓所は大坂小橋寺町の宝国寺。追善集に《三日之庵》《むすび塚集》などがある。〈長松(ちようまつ)が親の名で来る御慶(ぎよけい)かな〉(《炭俵》)。
執筆者:白石 悌三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
江戸中期の俳人。志田氏。別号に樗子(ちょし)、浅生庵(あそうあん)、高津野野翁(たかつのやおう)など。蕉門(しょうもん)十哲の一人に数えられる。越前(えちぜん)(福井県)福井で生まれ、大坂高津(こうづ)で没した。享年79歳。幼くして江戸に出て、越後(えちご)屋の手代となっている。25歳のおりの其角(きかく)編『続虚栗(ぞくみなしぐり)』に野馬号でみえる句が初見であるが、本格的活動は、1694年(元禄7)に手代仲間の利牛(りぎゅう)、孤屋(こおく)と共編の『炭俵(すみだわら)』以降のことである。許六(きょりく)から「流行のかるき一筋を得たり」(俳諧(はいかい)問答)と評されている。その俳論は、『袖(そで)日記』『樗庵草結(くさむすび)』などの伝書にうかがうことができる。門人一千余人(ぬれ若葉)といわれるが、京の風之(ふうし)、広島の風律(ふうりつ)などが有名である。許六との往復書簡が、1785年(天明5)嘯山(しょうざん)によって『許野消息(きょやしょうそこ)』として公刊されている。
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…許六の〈師の説〉に〈十哲の門人〉と見えるが,だれを数えるかは記されていない。その顔ぶれは諸書により異同があるが,1832年(天保3)刊の青々編《続俳家奇人談》に掲げられた蕪村の賛画にある,其角,嵐雪,去来,丈草,許六(きよりく),杉風(さんぷう),支考,野坡(やば),越人(えつじん),北枝(各項参照)をあげるのがふつうである。【石川 八朗】。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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