俳諧(はいかい)や俳句に関する論のこと。本質論、表現論、修辞論などを含むが、近世の俳論においては、体系的な論はまれで、ルールとしての式目作法的なものが大半を占める。また、その源流としての連歌(れんが)に対する俳諧自体の意味づけを問うところから出発した俳論の成立には、連歌論、歌論からの影響が大きい。まず近世初期、貞門派の開祖貞徳は『御傘(ごさん)』『油糟(あぶらかす)』『淀川(よどがわ)』の三部書などを著して俳諧の式目を整備するとともに、俳諧が和歌・連歌の雅に対する俗、優美に対する滑稽(こっけい)を生命とするものであることを規定し、また俳言(はいごん)(俗語や漢語)を嫌わず用いるところに俳諧の本質があるとした。貞徳門是誰(これたれ)の『玉くしげ』、徳元(とくげん)の『俳諧初学抄(しょがくしょう)』などにその立場の継承がうかがえる。これに対して新たに台頭した談林(だんりん)派では、総帥宗因(そういん)の、俳諧を「夢幻の戯言(ざれごと)」(阿蘭陀丸二番船(おらんだまるにばんせん))とみる立場を発展させて、門下の論客惟中(いちゅう)は『俳諧蒙求(もうぎゅう)』などに、『荘子(そうし)』の論に基づく寓言(ぐうげん)論を唱えて、談林俳諧の無心所着(むしんしょじゃく)にして自由奔放な吟調の論理的な正当化を図った。両派の間に激しい論争がおこったのもこの時期である。
ついで元禄(げんろく)期(1688~1704)の蕉風(しょうふう)俳論に至ると、俳論は高度な展開をみせ、俳諧本質論としての風雅の誠(まこと)、不易流行(ふえきりゅうこう)、造化随順(ぞうかずいじゅん)、高悟帰俗(こうごきぞく)、美的理念としてのさび・しをり・細み・軽み、付合(つけあい)論としての匂(にほ)ひ・うつり・ひびき・俤(おもかげ)など、さまざまな角度から説かれることになるが、その中心命題は「風雅の誠」を責め悟ることによって「俗語を正す」という理念を確立したところにあった。芭蕉(ばしょう)にとって俳諧の俗とは日常の次元の現象であり、これを詞(ことば)のうえで「懐しくいひとる」こと――すなわち詩の次元で雅に導いてゆくところに蕉風の誠の真髄をみいだしたのであった。俳諧の滑稽もまた蕉風にあっては、もはや観念の落差による笑いではなく、イメージの微妙な交流によるフモール(ユーモア)としてとらえられる。したがって表現においても、一句の「姿(景)」、つまり形象性が重視される方向に進んだ。去来の『旅寝論(たびねろん)』『去来抄』、土芳(とほう)の『三冊子(さんぞうし)』、支考の『葛(くず)の松原(まつばら)』『続五論(ぞくごろん)』『俳諧十論』、許六(きょりく)の『俳諧問答』『宇陀法師(うだのほうし)』、其角(きかく)の『雑談(ぞうだん)集』などに、それらの芭蕉の俳諧観およびそれに対する門人たちの理解の仕方をうかがうことができる。
その後、享保(きょうほう)期(1716~36)以降では、蕉風俳論は、其角ら江戸座流の「洒落(しゃれ)」の俳諧と、支考ら美濃(みの)派流の「姿」尊重の詩風との二分流を形成していったが、安永(あんえい)・天明(てんめい)(1772~89)の中興期に至ると、その蕉風復興運動の高揚のなかで、俳論はふたたび活発化し、初期蕉風を尊重する麦水(ばくすい)の『俳諧蒙求(もうぎゅう)』や後期蕉風を理想とする闌更(らんこう)の『有(あり)の儘(まま)』、白雄(しらお)の『加佐里那止(かざりなし)』の説などが提示され、前者の系列につながる蕪村(ぶそん)も『春泥(しゅんでい)句集』序文に名高い離俗論を説いて、胸中の俗気を去り、高邁(こうまい)な詩情を目ざす立場を明確にした。さらに化政期以降になると、俳論は多く考証的解説に傾いて創造性に乏しくなるが、それでも成美(せいび)の『随斎(ずいさい)諧話』、士朗(しろう)の『枇杷園(びわえん)随筆』など注目されるものも少なくない。
また、正岡子規(しき)の俳句革新運動によって幕開きされた近代俳句史の流れにおいても、写生説を提唱する子規の『獺祭書屋(だっさいしょおく)俳話』『俳諧大要』をはじめとして、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)ら新傾向俳句の季題無用論、大須賀乙字(おつじ)の季感象徴論、高浜虚子の花鳥諷詠(ふうえい)論へと展開し、第二次世界大戦後では、桑原武夫(たけお)のいわゆる俳句第二芸術論や、山本健吉の純粋俳句論などが、大きな影響を与えた。
[堀切 實]
『栗山理一他校注・訳『日本古典文学全集51 連歌論集・能楽論集・俳論集』(1973・小学館)』▽『白石悌三・尾形仂編『鑑賞日本古典文学33 俳句・俳論』(1977・角川書店)』
俳諧・俳句用語。俳諧・俳句の本質,理念,方法,規則,語彙などに関する論の総称。その発生は早く歌論,連歌論の中に見いだされる。俳諧の原義を滑稽,狂言などに求めた藤原清輔の《奥儀抄》や順徳院の《八雲御抄》,俳諧を連歌の一風体としてとらえた二条良基の《連理秘抄》などがそれである。しかし真の意味の俳論は,文芸の一ジャンルとして確立された〈俳諧之連歌〉の論でなければならない。
貞門においては,松永貞徳の〈十首式目歌〉(1628成立)を嚆矢(こうし)として85部の俳論が書かれた。俳諧の文学的確立に当たっていたため式目作法に関するものが圧倒的に多く,また連歌との区別が〈俳言〉の有無に求められたため語彙季寄(きよせ)の類も多く出されたが,俳諧の盛んになるにともない付合(つけあい)技法論も活発に行われるに至った。貞徳没後は俳壇の主導権争いから論難書が交わされ,談林派が台頭するや,俳諧を和歌の一体とみる文学観によって,これを攻撃した。代表的な俳論書に立圃《はなひ草》(1636),重頼《毛吹草》(1638),貞徳《御傘(ごさん)》(1651),季吟《埋木》(1656)などがある。
談林の俳論は,荘子の〈寓言〉論を俳諧に適用し,虚を重んじ〈無心所着(むしんしよぢやく)〉の俳体を奨励した岡西惟中の俳論によって代表される。これは西山宗因の自由主義を代弁するものであったが,あまりにも衒学的で奇に過ぎたため内外の反発をかい,論戦が展開された。惟中《俳諧蒙求(もうぎゆう)》(1675),西鶴《俳諧之口伝》(1677),松意《談林功用群鑑(こうようぐんかん)》(1679か)などがある。
蕉風は,〈不易流行〉論の創出によって俳諧の根源にある雅俗の二律背反を止揚し,〈さび〉〈しをり〉〈ほそみ〉などの微妙な俳諧美,〈にほひ〉〈うつり〉〈ひびき〉などの配合美を生みだす付合手法の理論化につとめた。その結果,俳論は有数の芸術論として定立した。支考《葛の松原》(1692),許六《篇突》(1698),土芳《三冊子》(1702ころ),去来《去来抄》(1704ころ)など。
芭蕉の没後,洒落俳諧,譬喩俳諧の流行が招いた俳風の低俗さを克服するため,〈芭蕉に帰れ〉が合言葉となった(天明俳諧)。貞享期(1684-88)の古風に帰ることを主張した麦水の《蕉門一夜口授(くじゆ)》(1773),自然の姿を重んじ私意を排すべしとする白雄の《加佐里那止(かざりなし)》(1771),《冬の日》《春の日》の高邁を慕い,俗語を用いて俗を離れることを説いた蕪村の《春泥句集》序(1777)などが名高い。
明治以降,俳文学の近代化をめざした正岡子規は,《獺祭書屋(だつさいしよおく)俳話》(1893)などで芭蕉の偶像化を批判し,伝統的な連句形式や月並俳諧を否定した。当時の文壇を風靡した自然主義は,河東碧梧桐の〈無中心論〉や,荻原井泉水の〈季題無用論〉などを生んだ。子規門にあって碧梧桐と対立した高浜虚子は,昭和に入って〈花鳥風詠論〉を展開し,高野素十,阿波野青畝,山口青邨,星野立子,富安風生,中村汀女らの俳句をはぐくんだ。
執筆者:乾 裕幸
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…ただ,明治以後は俳諧之連歌(連句)も多少は行われたが,子規が革新運動で〈連句非文芸論〉を唱えるころにはしだいに影が薄くなり,もっぱら発句だけが〈俳句〉の名のもとに創作され,鑑賞されるようになった。
[形式と種類]
俳諧文芸を形式の面から分類すると,狭義の意味の〈俳諧〉(連句),その巻頭の〈発句〉(俳句),さらには〈俳文〉〈俳論〉などに分けることができる。貞門俳諧,談林俳諧のころまでは100句を続ける〈百韻〉が標準的な形式であったが,蕉風俳諧以後は36句続ける〈歌仙〉形式がそれにとって代わった。…
※「俳論」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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